2014年12月9日火曜日

生まれつきの盲人2

神のわざが現われるため

 

生まれつきの盲人に、

イエス様が目を留められて立ち止まると、

イエス様が声をかけようとする前に、

弟子たちのほうが先に口を開きました。

 

弟子たちはイエス様に彼について質問して言ったのです。

 

「先生。

 彼が盲目に生まれついたのは、

 誰が罪を犯したからですか。

 この人ですか。その両親ですか。」

 

何とひどいことを言うのだろうか。

そう思われますか。

きっと弟子たちの声は、この盲人にも聞こえたことでしょう。

何と思いやりのない、何と愛のないひどいことばだ。

これでも弟子なのかと思いたくなりますね。

でも弟子たちがこういうのも無理のないことだったのです。

 

当時の伝統的な考え方は、

肉体に何かの問題があるのは罪の報いである、

というふうに考えられていたからです。

弟子たちの言葉は、

当時の人たちの代弁でしかなかったのです。

 

もう何度も、この盲人が聞いた言葉でした。

お前が罪を犯したのか、

それとも両親が罪を犯したのか。

生まれついたら盲目だったのに、

生まれてから、今まで散々聞き続けてきた言葉でした。

そして何度聞いても、何も変わりはしない言葉でした。

何も生み出さない、

ただ失望と暗い心にさせるだけの言葉でした。

 

きっと、この盲人は弟子たちの言葉を聞いたとき、

またかと思ったことでしょう。

 

ところが、イエス様は全く違うことを語られたのです。

今まで誰からも聞いたことのないことを語られたのです。

 

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。

 神のわざがこの人に現われるためです。」と。

 

この盲人は驚きました。

みんなお前が悪い、

両親の罪だと責任の追及ばかりして

何の解決も希望も語ってはくれなかったのです。

ところが、

この方は、

イエス様は、

あなたの罪でも、あなたの両親の罪でもないと、

はっきりと言われたのです。

 

世界で、ただ一人罪に定めることのできる方が、

あなたの罪でも、両親の罪でもないと、

言ってくださったのです。

それだけでも驚きでした。

それだけでも、この盲人は嬉しかったでしょう。

今まで散々自分でどうすることも出来ないことで

責められ続けてきたのに、

はじめて、彼はまことの愛にふれたと思ったことでしょう。

そのうえ、イエス様はこう付け加えられたのです。

 

「神のわざがこの人に現われるためです。」と。

 

彼が今まで聞き続けてきた言葉とは全く逆でした。

 

あなた方の罪ではないというだけではありません。

盲人に生まれついたのは、神のわざが現われるため。

神の栄光を、

そのことを通して見るためだと言われるのです。

 

今まで、これさえなければ、

目さえ見えればと思っていたのに、

イエス様は目が見えなかったこと、

盲人であったことはマイナスではなく、

まさに神のわざが現われるために必要だったのだと

言って下さったのです。

 

何という愛と希望に満ちたことばでしょう。

 

生まれつきの盲人が

彼の人生の中ではじめて聞いたことばでした。

彼の目は見えなくても、

彼にはイエス様の表情も、

まなざしも体中に感じながら、

イエス様に、彼の心と思いは

引き寄せられていったのです。

 

この盲人は、生まれてはじめて、

心のそこから希望を持ちました。

信仰を持ちました。

この方の仰ることなら何でも従おう。

この方になら、

私はすべてをかけて従おう、

そう思ったのです。

 

そう思っていると、

イエス様は地面につばきをして、

そのつばきで泥を作られ、

そして、その泥を盲人の目に塗って言われたのです。

 

「行って、シロアムの池で洗いなさい。」と。

 

なぜこのとき、

イエス様はつばを吐いて泥を作られたのでしょう。

まして、

その泥をなぜこの盲人の目に塗られたのでしょうか。

私にはわかりません。

 

ある神学者の方が注解書の中で、

泥の中には目に良い成分があると書いておられました。

もしかしたらそうなのかもしれませんが、何か無理を感じます。

 

私は、なぜイエス様が泥を作って、

この盲人の目に塗ったのかは

別にわからなくてもいいと思うのです。

 

大切なことは、

この盲人がそうされても全く嫌がりもせず疑問も持たずに、

イエス様のなすがままに任し、

そしてイエス様のことばに従ったということなのです。

 

もし私がこんなことをしたら、

相手は怒ったかもしれません。

でもこのとき、この盲人は怒るどころか、

質問もせず、

すぐイエス様のことばに従うのです。

 

それほど、

主のことばに彼は感動していたのです。

 

生まれてはじめて本物の愛にふれて、

生まれてはじめて彼は希望を持ったのです。

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