2014年12月30日火曜日

第14回目 十字架の生涯 ナルドの香油

ナルドの香油


エルサレムから

3キロメートル離れたところに

ベタニヤと言う町があります。


このベタニヤには、

かつてイエス様によって

死からよみがえったラザロと

その姉妹であるマルタとマリヤが

住んでいました。


そのことは以前に書いたので、

そちらを読んでください。


今回は、

そこに住んでいたシモンと言う

らい病人の家で起こったことを

書きたいと思います。



らい病人の家にこられた主


当時らい病人は、

人々と共に住むことは

出来ませんでした。

それどころか、

家族からさえも、隔離されて

「らいの谷」というところに

居なければならなかったのです。


なぜなら、らい病というのは、

単なる病気というのではなく

汚れた病気というふうに

考えられていました。

すなわち、宗教的にも汚れており、神に呪われていると

考えられていたのです。


それなのに、このシモンさんは、

ベタニヤの町に住んでいることが

できたのです。

おそらく、もうらいが

完全に直っていたのでしょう。

とはいえ、

かつてらいであったというだけでも

人々は避けるはずですが、

イエス様は避けるどころか、

そのらいだったシモンの家に

来られたのです。


人々が、

神に呪われていると思われていると考えられている人のところへ、イエス様は来たのです。そして共に食卓につかれました。その人の生活のただ中に来てくださったのです。そこには死の床からイエス様によってよみがえらされ復活の奇跡に預かったラザロもその姉妹のマリヤとマルタたちもいました。

(惜しみなく注がれた香油)

 その時、突然一人の女性がイエス様に近づいてきました。彼女はその手に純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエス様の頭の上に注いだのです。

 この純粋なナルド油というのは、ヒマラヤ原産のナルドという植物の根茎から取った香料による香油で、非常に高価なものでした。

 当時、女性たちは、自分が得たお金をこんな風にして、純粋で高価なナルド油に変えて、つぼの中にためていたのです。今ふうに言えば、結婚準備のための積立貯金のようなのでした。

 しかしそれは現代の貯金なんかよりもはるかに真剣なものだったようです。少し大げさな言い方をすれば、女性のそれまでの生命そのもの、生活そのものだったのです。

 この女の人は、そのつぼをイエス様のために割ったのでした。そしてこの最高の香油をイエス様に注いだのです。

 それは単に心のこもったおもてなしという以上のものだったのです。なぜなら、このつぼはこの人がいつか結婚するときのために蓄えてきた彼女の生命そのものだったからです。

この人はイエス様を愛するあまり、今までの自分の人生そのものをイエス様に捧げたのでした。大切に大切に蓄えてきたものをイエス様に注ぎ出したのでした。

 イエス様への熱い思いと愛が、この人にそうさせたのです。それは誰から言われたのでもなく、この人の心の底からあふれてきたイエス様への愛がそうさせた行動でした。

(愛は計算や効率を越える)

 ところが弟子たちの何人かは、これを見て憤慨して言いました。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、300デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そう言ってこの女の人をきびしく責めたのです。

確かに弟子たちの言うことは妥当なことに思えます。と言うのも貧しい人に施しをすることはユダヤ人にとっては重要な奉仕であったからです。

 この女の人のつぼの中には、300デナリ以上に売れるだけの香油が入っていました。当時普通の労働者の1日の賃金は、1デナリでした。ですから、300デナリというのは普通の労働者の300日分の給料に匹敵します。たったひとりの人に一瞬に香油を注いでしまうより、この香油を売って多くの貧しい人を助けるほうが、はるかに効率が良いではないか。弟子たちはそう思ったのでしょう。

なるほど普通に考えれば弟子たちの言うことは妥当に思えます。しかし弟子たちは一番大切なものを見落としていました。それはイエス様へのこの女の人への愛でした。愛は効率や計算では動かないのです。そして愛は、人の計算や効率を超えてはるかに大きなことを成すのです。

 この女の人にとっては、イエス様に今までの人生を注ぎ出すことも、300デナリになる香油を一瞬にして失うことも全く惜しくなかったのです。このひとは計算や打算で動いたのではありませんでした。イエス様への愛がこの人を動かしたのです。本当の愛は計算しないのです。

(自分に出来る事をしただけ


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