2015年1月29日木曜日

リニュアルされた西坂

西坂がリニュアルされています。
ほとんど工事終了の感じですが
まだ工事の方がおられたので
完全ではないようですが・・・

神様は
私達も新しくされようとしておられます。
過去にとらわれず、十字架の恵みによって
信仰によって歩むようにと・・・
殉教、リバイバルに向け備えるため
神のみ言葉を待ち望みます。
シオン

2015年1月25日日曜日

イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです

24日のラジオ番組は、聖書が書かれた時、多くの癒し、奇蹟を行われていた
イエス・キリストは、今も変わらなく行われます、とメッセージがありました。
パーソナリティーが、カンボジア派遣から帰国直後の番組で、そのことも聴けます。
挿入曲は、「聖霊注いでください」「ここから」「You Work for My Good」「喜びの声をあげよ」でした。

2015年1月22日木曜日

イエスが示された愛の極み5

互いに愛し合いなさい

ところで、
よく最後の晩餐と言うと、
すぐにレオナルド・ダ・ビンチが
描いた絵を思い出す方が、
多いのではないでしょうか。

イエス様を中心に
椅子に腰掛けている12人の弟子を
思い浮かべてしまいます。
しかし、
これは西洋人の書いた最後の晩餐で
あって、
本当はこんなふうには、
してはいなかったのです。
もしそうだとしたら、
イエス様は弟子の足を洗うために
テーブルの下にもぐり込んで、
狭い中で大変なことになっています。

当時の食事のとり方は、
体を横にして、
左手で頭を支え、
右手を伸ばして真ん中にある、
あるいは前にある食べ物を取る
という形でした。

今だと行儀が悪いと
怒られてしまいますが、
それが当時の習慣だったのです。

またひとりの人が
横になっているところのお腹に
次の人の頭が来ます。
ですから、
足は外のほうに出ていくので、
イエス様が足を洗ったのは
とても自然で無理のないこと
だったのです。

イエス様は
誰も目を留めない
外に飛び出している
汚れ切った弟子たちの汚い足を
ひとりずつ全員洗われました。

イエス様は、
十字架のかかる前に真実な愛、
本物の愛とは何かを
弟子たちに示されたのでした。
行動をもって、
弟子たちに愛の模範を
示されたのでした。

弟子たちの足を洗い終わったあと
主は、上着を着けて、
再び席について、
彼らに言われました。

「わたしがあなた方に何をしたか、 わかりますか。
あなた方は私のことを
先生とも主とも呼んでいます。
確かに、わたしはそういうものです。
その主であり
師であるこのわたしが、
あなた方の足を洗ったのですから、
あなた方も
また互いに
足を洗い合うべきなのです。
わたしがあなた方にしたとおりに、
あなた方もするように、
わたしはあなた方に
模範を示したのです。
あなた方がそれを行うときに、
あなた方は祝福されるのです。」

イエス様が
十字架にかかる直前まで、
誰が偉いかと争っていた弟子たち、その弟子たちに
イエス様はご自身の行動をもって
教えられました。

弟子たちは
この時すぐには
イエス様の愛と真意を
わかりはしませんでした。

しかし十字架の後に、
よみがえられたイエスにお会いし、
ペンテコステの日に
聖霊を受けた後に弟子たちは、
イエス様の
この時の模範を思い起こしたのです。

そして彼らも
互いに足を洗い愛し合うものへと
変えられたのでした。

真実な愛は、
必ず人を変え、
実をつけるのです。

神様のみこころ

私達のまわりでいろんな事が許されています。
その度に早くイエス様を信じて欲しいと
願い祈ります。

そんな時次のみ言葉に勇気づけ励まされます。
「わたしの父のみこころは、
子を見て信じる者が
みな永遠のいのちを持つことです。
わたしはその人たちをひとりひとり
終わりの日によみがえらせます。」 ヨハネ 6 : 40

神様のみこころは、
イエス・キリストを信じて永遠のいのちを
持つことだと・・・
そしてひとりひとりを
終わりの日にはよみがえらせます。と・・・

何と希望に満ちた「ことば」でしょう。
私達の知ってる人々が、まわりの人々が
イエス・キリストを信じる者となり
永遠のいのちを持つ者になりますように。
シオン

賛美が大好き!

教会のヤングチームでHillsongのKing of Majestyを賛美しました!
私たちは賛美することが本当に大好きなメンバーの集まりです♪
下記のURLをクリックしてぜひご覧ください(^-^)


https://m.youtube.com/watch?v=PF1VrHw8uB8&feature=youtu.be

By Hope

2015年1月19日月曜日

イエスが示された愛の極み4

足を洗うだけで

足を洗おうとしてくださる
イエス様に、
さらにペテロは言いました。

「決して私の足を
お洗いにならないでください。」

イエス様は答えられました。

「もしわたしが洗わなければ、
あなたはわたしと
何の関係もありません。」

するとシモン・ペテロは
慌てて言いました。

「主よ。
私の足だけでなく、
手も頭も洗ってください。」

今まで足を洗わないでくださいと
言っていたのに、
イエス様に洗わないと関係ないと
言われると、
今度は突然、足だけでなく、
手も頭も洗ってくださいと
ペテロは言いました。
何とも現金なというか、
いかにも
おっちょこちょいのペテロ
らしいですね。

でも水浴したものは
足以外は洗う必要はなかったのです。
それで全身きよいとされたのです。
私たちも
イエス様の十字架を信じていても、
ペテロのように
それだけで足りなくて、
足も頭もと、
つまり立派な行動や
断食や慈善行為が必要だと
思ってしまいやすいのです。
もちろん、
それらはすばらしいことですが、
それは救いの結果として
後でついてくるものです。

救われるのには、
ただ十字架だけでいいのです。
ただ
イエス様の十字架を信じるだけで
私たちは、
主のものとして聖別され、
きよいものとしていただけるのです。

イエスが示された愛の極み3

あとでわかる愛

イエス様は弟子たちの足を
ひとりずつ順に洗っていました。
そしてシモン・ペテロのところに
来られました。
すると
ペテロは思わずも言いました。

「主よ。
あなたが、わたしの足を
洗ってくださったのですか。」

するとイエス様は
すぐに答えられました。

「わたしのしていることは、
今はあなたにはわからないが、
あとでわかるようになります。」

イエス様は
「あとでわかるようになる。」
と言われました。
確かに真実の愛、
本当の愛というのは多くの場合、
その時は誤解されたり、
わかってもらえないことが
多いのです。
しかし真実な愛は後の日に、
明らかになるのです。
例えば、
この地上で示された最高の愛である
イエス様の十字架を
考えてみてください。

イエス様が
十字架にかけられたとき、
だれ一人として
イエス様の十字架を
理解した人はいなかったのです。
イエス様は
私たちの罪の身代わりとなって、
ご自分の命を捨てて、
死にまで従って
十字架の上で苦しみを
受けてくださったのです。

しかしそのとき、
手塩にかけた弟子たちは
逃げていきました。
筆頭弟子のペテロは
呪いをかけてイエス様を否み、
知らないと言いました。
亜麻布を脱ぎ捨てて、
裸で逃げた弟子たちもいました。

イエス様の愛に
まるで恩を仇で返すようにしたのは
弟子たちだけではありません。
群衆は
イエス様を十字架につけろと叫び、
彼らの罪のために
苦しんでいるイエス様に、
十字架から降りてきたら
信じてやると
罵声を浴びせかけたのです。
だれも
イエス様の愛が
わかっていませんでした。
それどころか、
必要とさえ思っていなかったのです。

ガリラヤから来た女たちは
確かにイエス様を愛していました。
ですから悲しくて、
辛くて泣いていました。
しかし彼女たちでさえ、
イエス様が
自分のために
十字架で死んでくださっている
ということは
わかっていなかったのです。
この時だれ一人として、
イエス様の十字架が、
自分の救いのために必要で、
イエス様が
そのために生命をかけて贖い
愛を示してくださっている
ということを理解している人は
いなかったのです。

イエス様は
最も大きな最高の愛を示している
その只中で誰にもわかってもらえず、たった独りぼっちで
孤独だったのです。
そして父なる神様にまで
私たちの身代わりに捨てられて、
本当に孤独の中を通られたのです。

しかし今、
イエス様は全世界に
時代と歴史を越えて
ご自分を心から愛し、
殉教してでも従ってくる弟子たちを
お持ちになっています。

これが真実な愛が見る実なのです。

本当の愛は
後の日に
必ず豊かな永遠に至る報いと実を
つけるのです。

もしも今、あなたが誰かのために、
真実に主の愛をもって
愛していたとしても、
理解されず全くわかってもらえず、
それどころか
誤解と中傷の中にいたとしても、
すぐに投げ出したり
しないでください。
心は痛むかもしれません。
けれども真実な愛は
必ず後の日に
豊かな報いをもたらすのです。
天にまで及ぶ永遠にいたる実を
必ずつけるのです。
だから主の愛をもって
イエス様がなされたように
私たちも無理解と誤解の中で
愛を示し続けましょう。

イエスが示された愛の極み2

弟子たちの足を洗われるイエス

イエス様の回りを取り込んで
12人の弟子たちが、
みんなそろって
夕食を食べていました。

すると突然、
イエス様は
夕食の席から立ち上がり、
上着を脱ぎ、
手ぬぐいを取って
腰にまとわれたのです。
それから、たらいに水を入れ、
回りにいた弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められました。

弟子たちの足は
とても汚れていました。
当時は立派な履物などは
ありません。
それどころか、
裸足でいた人もいたほどです。
日本でいえば
地下足袋のような履物を
はいていたのでしょう。
足も今のようなズボンではなく、
むしろ女性のスカートに近いものを
はいていました。
ですから、足は、
とてもとても汚れていたのです。
その汚れきっていた弟子たちの足を
イエス様は
一人ずつ洗われたのでしょう。

それは弟子たちへの
模範を示すためでした。
愛することの
模範を示すためでした。
愛することの模範を
足を洗って弟子たちに
示されたのです。

師であり、
先生であったイエス様が、
弟子たちの一番汚れていた場所を
洗ってくださったのです。
人が、だれかを好きになったり、
愛していると言うときは、
その人の何かが、
あるいはどこかが、
自分の好みにあっていると
いうことです。
ですから、
しばらくするといやになったり、
その人の思っていたことと違って
期待はずれだったりすると、
もう嫌いになってしまいます。
残念なことに、
場合によっては
愛が憎しみに変わることさえ
あるのです。

しかしイエス様は違います。
私たちが、
何かが出来るから
愛してくださるのでも、
姿かたちが格好良くて、
イエス様のお気に入りのことを
するから愛してくださるのでも
ないのです。
それどころか、
イエス様は
私たちの最も醜いところを
そのまま受け止め
愛してくださるのです。
自分でも見たくないような、
見ようとしないような
醜い汚れきったところを
イエス様の十字架の愛と血潮で
洗い流し、
清めてきれいに
してしてくださるのです。

これがイエス様の示された
愛でした。
これが
私たちの主、イエス・キリストです。

愛が憎しみに変わることなど
イエス様にはありえないのです。
イエス様が愛してくださった
真実な愛は憎しみは変わることなど
ないからです。

イエスが示された愛の極み1

イエスが示された愛の極み

イエス様が十字架にかかるときが
近づいていました。
いよいよこの世を去って、
父なる神のみもとに帰られるときが
来たのです。
イエス様が
こよなく愛していた弟子たちとも
別れなければならない時が
来ようとしていました。

それでイエス様は、
十字架にかかる前夜に、
弟子たちとともに
最後の晩餐をされ、
その愛を残ることなく
示されたのです。

今回は、
その時のことをお話ししましょう。

2015年1月18日日曜日

命がけの信仰

ゴスペルメッセージオンサタデーナイト
1月17日の放送は、「命がけの信仰」と、
神さまにより癒されたことが、語られ
リスナーのさがともさんからの、リクエストや、静寂さんからさがともさんへの
誕生日のリクエストなど、紹介されました。
挿入曲は「Triumph!」「Happy Birthday」「ここから」「まぼろし」


2015年1月15日木曜日

天国はほんとうにある。

今、「天国はほんとうにある」と言う本を
読んでいます。まだ途中ですが・・・
これから、終わりの時を歩んでいくための
貴重な本です。
聖書を通して、天が開かれ、永遠が開かれてきた今
今年の殉教聖会が開かれる前、
又、個人的にも今一度「殉教の本」も読み直しを
語られた今、
「天国はほんとうにある」も与えられたということは、
この群れに語られている
殉教、リバイバルの時が近づいている事を思わされます。

「備えなさい」「目をさまして祈っていなさい。」と
語られていることを思わされます。
どの様な状況も感謝をもって受け取れますように。
主を信じ依り頼む事ができますように。
へりくだって、み心を行えますように。
み心を全う出来ますように。
シオン

2015年1月13日火曜日

天国は、ほんとうにある

待ちに待った「天国は、本当にある」が届きました。
これを母にプレゼントしたいと思います。
母に永遠のいのちの祝福がありますように☆彡


Hope

ナルドの香油8

あなたも主が呼んでいる

そして今、
これを読まれているあなたにも
主が呼びかけをしておられるのでは
ないでしょうか。

終末のリバイバルの時が
近づいている今、
そう今こそ、
あなたの愛と献身を
示すときではありませんか。

主に
あなたの出来る
心からの愛を示しましょう。

イエス様に、
あなたの真実な愛を捧げましょう。

主は必ず
あなたの献身に
愛と真実を持って応え、
大いなる祝福を返してくださいます。

ナルドの香油7

この時にすべきこと

最後に、
イエス様は
決して貧しい人々への施しを
否定されたのではありませんでした。

むしろイエス様は、
いつも貧しい人々のあいだを歩かれ
生活を共にされたのです。

しかしこの時は、
まさにイエス様が
十字架にかかられる
直前に来ていました。

貧しい人々には、
本当に施しをしたいと思うなら、
いつでも出来ます。

しかしイエス様は、
このとき、
死を目前にしておられました。

イエス様に対して
愛と献身を示すには、
このときをおいて
他にないという時が
確かにあるのです。

この女の人は、
その時と機会を
直感的に知っていました。

その時を見抜き、
その機会をとらえたのです。

なぜ彼女には、
それが出来たのでしょう。

この女の人が、
主を真に愛していたからでした。

人からみたら
「むだ」と思えるようなことも
イエス様に対しては
惜しみなくすることが出来る愛が
あふれていたのです。

人にはむだなこと、
大きな犠牲と思えることも、
この人にとっては
価値のあることだったのです。

決して犠牲とは
思わなかったのでしょう。

私たちも
主に対して愛と献身を示すとき
というのがあります。

この世の価値観や
人間的な判断によって
主の時を見失わないようにしましょう。

貧しい人はいつもいます。

しかし、
この時でなければならない
主の時というのが確かにあるのです。

2015年1月11日日曜日

ナルドの香油6

私たちも愛に生きる

イエス様は

「世界中どこででも、
福音が宣べ伝えられる所なら、
この人のした事は語られて、
この人の記念となるでしょう。」

と言われました。

今、このイエス様のことばは
成就しています。

聖書に記されたこの記事は、
世界中で語り続けられているのです。

私たちも日々の生活の中で、
知らないあいだに、
効率ばかりを考えて
生きていないでしょうか。

イエス様への愛と献身というよりも
弟子たちと同じように、
目の前の損得や
この世の価値観や
人間的な判断の中に
気づかないうちに
はまってしまって
いないでしょうか。

私たちが真に主を愛し、
イエス様への愛の中に
生きようとするとき、
今でも弟子たちのように、
私たちを責める人々は
いるかもしれません。

しかし、イエス様は私たちの愛を
決して軽んじたり馬鹿にしたりは
なさらないのです。

あなたに出来るその愛を
主に示すとき、
主は喜んでそれを受け取り、
私たちが思うよりも
はるかに偉大なことを
成してくださる方なのです。

2015年1月8日木曜日

赦し合う

殉教聖会が近づいています。
殉教聖会のために祈っていくなかで
主は今一度、「殉教」の本を読むことを導かれました。

読んでいくなかで、祈っていくなかで今迄、気付かなかった事を
気づかされ、解らなかった事を教えられています。

26聖人たちは、彼杵の港に来ました。
そこから船で時津に向かうためです。
そしてそこで彼らは、イエズス会の神父に会いました。
イエズス会とフランシスコ会の間には、宣教の考え方や
やり方にずいぶん違いがあったそうです。

それでこの時、ペテロ・バプチスタ神父はフランシスコ会士を
代表して、イエズス会の神父に、謝罪と和解を言い
二人はお互いを赦し合って、固く抱き締め合ったとあります。

今迄何回も彼杵の海にきました。
来るたびに、いつも「平安」という言葉が来てました。
たとえ風が吹き海が荒れていても、
雪の日に来た時も、来るたびに「平安」と・・・

その意味がわかったような思いです。
主よ。天に召される時は、どんな方とも
赦しと和解がなされていますように。
十字架の愛によって・・・・ シオン

2015年1月7日水曜日

ナルドの香油5

自分に出来る事をしただけて

弟子たちの言葉を聞くと、
イエス様はすぐに言われました。

「そのままにしておきなさい。
なぜこの人を困らせるのですか。
わたしのために、
りっぱなことをしてくれたのです。
貧しい人たちは、いつも
あなたがたと、いっしょにいます。
それであなたがたのしたいときは、
いつでも
彼らに良いことをしてやれます。
しかし、わたしは、いつも
あなたがたといっしょに
いるわけではありません。
この女は
自分にできることをしたのです。
埋葬の用意にと、
わたしのからだに、
前もって油を塗ってくれたのです。
まことにあなたがたに告げます。
世界中のどこででも、
福音が 宣べ伝えられる所なら、
この人のした事も語られて、
この人の記念となるでしょう。」

イエス様は
この女を
きびしく責めていた弟子たちを
たしなめられて

「この人はわたしのために
りっぱなことをしてくれたのです。」

と言われました。

実は
イエス様が十字架にかかるときが
近づいていたのです。

もちろん弟子たちも、
この女の人も、
そんなことは知りませんでした。

しかし、
イエス様は知っておられました。

ですから

「わたしは、いつも
あなたがたといっしょに
いるわけではありません」

と言われたのです。

しかも
イエス様はこう言われています。

「埋葬の用意にと、
わたしのからだに、
前もって油を塗ってくれたのです。」

はっきりと
イエス様は
十字架を見据えておられました。

もう間もなく、
わたしは十字架にかかり
死を選ばなければならない。

その前に、
この女の人は
わたしに油を塗ってくれたのだと、
イエス様は言われたのです。

というのも
ユダヤ人たちは死体を埋葬する時、
油を塗ったからです。

もちろんこの女の人は、
そんなことは全く考えていなかったでしょう。

イエス様が十字架にかかることも、
その前に油を塗ることになったことも、
この人には
全く及びもつかないこと
だったでしょう。

しかし
この人が自分にできることを
イエス様にしたときに、
彼女の出来る
最高の愛を主に捧げたときに、
何と十字架のための備えの油注ぎと
なったのです。

この人が
考えたのではありませんでした。

しかし
イエス様への真実な愛は
どんな計算は効率よりも、
もっと大いなることを成すのです。

2015年1月6日火曜日

ナルドの香油4

愛は計算や効率を越える

ところが弟子たちの何人かは、
これを見て憤慨して言いました。

「何のために、
香油をこんなにむだにしたのか。
この香油なら、
300デナリ以上に売れて、
貧乏な人たちに
施しができたのに。」

そう言って、
この女の人をきびしく責めたのです。

確かに弟子たちの言うことは
妥当なことに思えます。

と言うのも
貧しい人に施しをすることは
ユダヤ人にとっては
重要な奉仕であったからです。

この女の人のつぼの中には、
300デナリ以上に売れるだけの香油が
入っていました。

当時普通の労働者の1日の賃金は、
1デナリでした。

ですから、
300デナリというのは
普通の労働者の300日分の給料に
匹敵します。

たったひとりの人に、
一瞬に香油を注いでしまうより、
この香油を売って
多くの貧しい人を助けるほうが、
はるかに効率が良いではないか。

弟子たちはそう思ったのでしょう。

なるほど、普通に考えれば
弟子たちの言うことは
妥当に思えます。

しかし弟子たちは、
一番大切なものを
見落としていました。

それはイエス様への、
この女の人への愛でした。

愛は効率や計算では動かないのです。

そして愛は、
人の計算や効率を超えて
はるかに大きなことを成すのです。

この女の人にとっては、
イエス様に
今までの人生を注ぎ出すことも、
300デナリになる香油を
一瞬にして失うことも
全く惜しくなかったのです。

このひとは計算や打算で
動いたのではありませんでした。

イエス様への愛が
この人を動かしたのです。

本当の愛は計算しないのです。

ナルドの香油3

惜しみなく注がれた香油

その時、
突然一人の女性が
イエス様に近づいてきました。

彼女はその手に、
純粋で非常に高価な
ナルド油のはいった石膏のつぼを
持って来て、
そのつぼを割り、
イエス様の頭の上に注いだのです。

この純粋なナルド油というのは、
ヒマラヤ原産のナルドという植物の
根茎から取った香料による香油で、
非常に高価なものでした。

当時、女性たちは、
自分が得たお金をこんな風にして、
純粋で高価なナルド油に変えて、
つぼの中にためていたのです。

今ふうに言えば、
結婚準備のための積立貯金のような
ものでした。

しかし、
それは現代の貯金なんかよりも
はるかに真剣なものだったようです。

少し大げさな言い方をすれば、
女性のそれまでの生命そのもの、
生活そのものだったのです。

この女の人は、
そのつぼを
イエス様のために割ったのでした。

そして、
この最高の香油を
イエス様に注いだのです。

それは
単に心のこもったおもてなし
という以上のものだったのです。

なぜなら、
このつぼは、
この人が、
いつか結婚するときのために
蓄えてきた
彼女の生命そのものだったからです。

この人はイエス様を愛するあまり、
今までの自分の人生そのものを
イエス様に捧げたのでした。

大切に大切に蓄えてきたものを
イエス様に注ぎ出したのでした。

イエス様への熱い思いと愛が、
この人にそうさせたのです。

それは誰から言われたのでもなく、
この人の心の底からあふれてきた
イエス様への愛が
そうさせた行動でした。

ナルドの香油2

らい病人の家にこられた主

当時らい病人は、
人々と共に住むことは
出来ませんでした。

それどころか、
家族からさえも隔離されて
「らいの谷」というところに
居なければならなかったのです。

なぜなら、
らい病というのは、
単なる病気というのではなく、
汚れた病気というふうに
考えられていました。

すなわち、
宗教的にも汚れており、
神に呪われていると
考えられていたのです。

それなのに、
このシモンさんは
ベタニヤの町に住んでいることが
できたのです。

おそらく、
もう、らいが
完全に直っていたのでしょう。

とはいえ、
かつてらいであったというだけでも
人々は避けるはずですが、
イエス様は避けるどころか、
そのらいだったシモンの家に
来られたのです。

人々が、
神に呪われていると思われていると
考えられている人のところへ、
イエス様は来たのです。

そして共に食卓につかれました。

その人の生活のただ中に
来てくださったのです。

そこには
死の床から
イエス様によって
よみがえらされ
復活の奇跡に預かったラザロも
その姉妹のマリヤとマルタたちも
いました。

ナルドの香油1

ナルドの香油


エルサレムから

3キロメートル離れたところに

ベタニヤと言う町があります。


このベタニヤには、

かつてイエス様によって

死からよみがえったラザロと

その姉妹であるマルタとマリヤが

住んでいました。


そのことは以前に書いたので、

そちらを読んでください。


今回は、

そこに住んでいたシモンと言う

らい病人の家で起こったことを

書きたいと思います。

2015年1月5日月曜日

Rejoice!Rejoice!

昨日インターナショナルサービスのメンバーで「I rejoice in the Lord」を賛美しました♪
ああ!本当に喜びいっぱい楽しかったです!( ´ ▽ ` )ノ
その時の動画を撮ってもらったので載せたいのですが、載せ方がわからない(・・;)
でもとってもいい動画(落ち込んだ時に見ると神様の喜びに満たされて元気になります(*^o^*))
なので近日必ず載せたいと思いますっ!(^o^)/



Hope

2015年1月4日日曜日

聖書の学び

毎週日曜日聖書の学びが行われています。
聖書の学びを通してもゴスペル メッセージを聞くことができます♪
この素晴らしい恵みを感謝します!*\(^o^)/*

By Hope

2015年1月3日土曜日

何代目?

iPhone5の充電器のケーブルが断線したので新たに購入しました。
Softbankポイントが貯まっていたので安くついて感謝でした(*^^*)
iPhone5に替えて1年8ヶ月が経ちますが、これまで3、4回ケーブルが壊れたので買い替えました。
毎日教会のブログをアップするため充電器の使用頻度が半端ないのです。
もはや何代目のケーブルかわからなくなりましたが、とにかく大切に使いたいと思います。(^_^)v



Hope

2015年1月1日木曜日

祈りの恵み

先日、26聖人記念館長さんに
牧師ご夫妻と映画ミッションのK牧師が
会いにいかれた。

教会で十字架の下で、神様のみ心が全うされるようにと
祈るなかで、神様は何故26聖人の映画化を?とフッと
思った。その時ハッと思わされた。

天のことが聖書を通して開かれ始め
永遠が開かれ始めている今
患難時代も近付いてきている。

そのための備えのために
今一度26聖人の信仰を通して
どんな状況のなかでも、迫害のなかにあっても
天を永遠を確信し、主から目を離さずいつも喜んでいた
その主への愛と、天への永遠への揺るぎない確信を
持つように導いておられる事を・・・・

主の時が近付いてきていることを
聖書に書いてある終わりの時が近い事を
一人一人が「永遠のいのち」を受けることを
望んでおられる主は、
長崎の民を、日本の民を、世界の民を愛し、
天への確信、永遠の確信をもたせるために
26聖人の映画化をハリウッドから
出させようとしておられるのではないかと・・・

「キリストのいのち」を受け継いだ者が
喜んでその「キリストのいのち」を次の人へと
殉教を通して与えていく。天へ永遠に入るために。

その事を思わされた時、
神様の、主の深い愛に涙が止まらなかった。
今日のぶんを、あなたのみ心を全うさせて
下さいと更に祈る力が注がれた。

祈りを通して多くの事を教えられます。
気付かなかった事に気づかされます。
人知をはるかに越えたキリストの愛を知ります。

殉教、リバイバルに向けて備えがなされますように。
天への確信、永遠の確信をもち、
26聖人の信仰のスピリットを受け継ぎ
どんな時も喜び賛美をする者になりますように。
祈りの恵みを感謝します。 シオン

選び

2015年1月1日。
寒い朝です。雪が降ってきました。

今日のデーボーションのみ言葉です。
「どうしても必要なことはわずかです。
いや、一つだけです。
マリヤはその良いほうを選んだのです。
彼女からそれを取り上げてはいけません。」
ルカ 10 : 42
一日一日があっという間に過ぎていきます。
そのなかで何を選ぶか、選択の道が許されて
きます。
主は私達に、選ぶ自由を与えて下さっています。

だからこそ、
「どうしても必要なことはわずかです。」と言われた
イエス様に「良いほうを選んだ」と
言っていただける選びをしていけますように。
シオン