2014年11月30日日曜日

五つのパント2匹の魚4

信仰の備え

5つのパンと2匹の魚を見たとたん、

イエス様は言われました。

「人々を座らせなさい。」

それで、人々は草の上に座りました。

これは、からだを横にすることです。

当時のユダヤでは、からだを横にして食事をしていたのです。

今そんな風にして食べると、行儀が悪いと言われますが、
それが当時の習慣だったのです。

つまりイエス様は、食事を食べるための準備をさせたのです。

イエス様は奇跡を行う前に、
まだパンは5つのままで、魚も2匹のままのときに、
食事を食べる準備を人々に命じられました。

私たちにも同じように、主は語られます。

奇跡が起こってからではなく、

奇跡が起こる前に準備しなさいと言われるのです。

リバイバルが起こる前に、
リバイバルが必ず来るから、
その準備をしなさいと言われるのです。

人々が言われた通り、
草の上にすわって食事をする準備をしたときに、
十分食べることができたように、
私たちも来るべきリバイバルに備えて準備していくときに、
すばらしいリバイバルの働きに預かり、担うことができるのです。

五つのパント2匹の魚3

5つのパンと2匹の魚

そのとき、アンデレという弟子が、

少年の持っていたお弁当(?)をもって

イエス様のところに来て言いました。

「ここに少年のお弁当があります。

大麦のパンが5つと小さい魚が2匹あります。
でも、こんなに大ぜいの人々では、それが何になるでしょう」

どうもアンデレは、あまり期待していなかったようです。

ところが、

この5つのパンと2匹の魚から、主は奇跡をなさるのです。

男だけで5千人の人々が満腹する奇跡が起こるのです。

アンデレは、5つのパンと2匹の魚を持ってきました。

彼のことばを聞いていると、

決して信仰があったとは言えません。

でも、イエス様のところに持ってきたのです。

そこが、ピリポの決定的な違いでした。

あなたが主に語られたとき、

それがたとえ無理と思っても、不可能と思っても、
すぐにあきらめないでください。

今、あなたにあるものを、

主の前に差し出してください。

たとえ、それがあなたの目には

何の役にも立たないと思えても、
わずかなものでしかないと思ったとしても、
それを主の前に差し出してください。

主は、そこから奇跡を始められるのです。

中国に行かれた

新川宣教師といわれる方がおられますが、
彼は、かつて勉強が大嫌いで、

漫画さえ、あのカッコの中の字を読むのが

嫌で読まなかった人でした。

ところが、

イエス様を信じて救われた後、

彼は韓国に行ったときに、

宣教師としての召しを受けるのです。

そして彼が祈ると

何と漢字が読めなかった彼に、

漢字だけの世界に行きなさい、

と言われたのです。

新川宣教師は従いました。

彼は漢字が嫌いで苦手な自分を

主の前に差し出して、祈ったのです。

福音宣教のために、

ダニエルに与えられた知恵を私にも与えてください、と。

主は奇跡をなさいました。

いま彼は、北京語、広東語、台湾語、
そして英語まで流暢に書き話しながら、

福音を述べ伝えています。

主は、今も生きておられます。

あなたにも、主は奇跡をなしてくださいます。

主に従って、

今あるものを、そのままで捧げましょう。

2014年11月29日土曜日

初めて見たフルート♪

ゴスペルクラブの練習が行われました。
チェロ奏者で楽器大好きのMさんが
プラスティック製のフルートを持って来られました。
プラスティック製のフルート初めて見ました。(*^o^*)
お手頃価格でメンテナンスも楽で軽いのでとても良いです!d(^_^o)

2014年11月27日木曜日

立て直される神様

「すべてのことを立て直すのです。」
マタイ 17 : 11
今、周りの木々が色づいてきています。
よく見るとそれぞれの木々の色が違います。
一枚一枚の葉の色も違います。
私達、一人一人も違います。

神様は一人一人違う個性ある者として
造って下さいました。
ですから、一人一人の試練も訓練も違います。
でも、どの様なかたちであろうと一人一人を
立て直していかれます。

あなたのすべてをご存知の主が
一人一人を立て直していかれます。
あなたらしさを失うことなく
神様の望まれる者に立て直して下さいます。
シオン

2014年11月25日火曜日

目標とする宣教師

長崎教会からカンボジアに遣わされている前田宣教師が5年ぶりに日本に帰国されました。
ポルポトの傷後が残るカンボジアで神様のことばに立ちカンボジア孤児院の働きに携わられ17年が経ちました。
孤児院の子どもたちを神様の愛を受けて育ててこられました。
今に至るまでカンボジアの宣教師として忠実に神さまに仕えておられます。
神様の使命に生きる前田宣教師は輝いて生きておられます。
前田宣教師とお話し、宣教報告を聞きながら、改めてこのような宣教師になりたいと強く思いました!(^-^)

By Hope

2014年11月22日土曜日

五つのパント2匹の魚2

弟子たちの考え

イエス様のまわりには、

いつも多くの人が群れをなして集まっていました。

それは、

イエス様が病気で苦しんでいる人たちを、
その病から解放して、いやされていたからです。

このような奇跡やしるしを見た人たちが、
イエス様のまわりを取り巻いて数千人、
いやそれどころか数万人という数になっていました。

イエス様は山に登り、

弟子たちとともに、そこに座られました。

夕方になって、もう時刻が遅くなったとき、
弟子たちは、

人々のことが心配になって、

イエス様に言いました。

「ここはへんぴで、寂しいところですし、

もう時刻も遅くなりました。
みんなを解散させて、

近くの部落や村に行って、
めいめいで何か食べるものを買うようにさせてください」

弟子たちの言うことは、もっともなことでした。

みんなは、お腹をすかせていましたし、
これ以上遅くなると、

真っ暗になってしまって、

大変なことになってしまいます。

ところが、

イエス様は、とんでもないことを言われたのです。

「彼らが出かけて行く必要はありません。
あなたがたで、あの人たちに何か食べるものを上げなさい」

弟子たちは、びっくりしてしまいました。

成人の男だけでも5千人はいるのです。

女の人や子どもたちも加えると数万人はいるでしょう。

いったいどうしろとイエス様は言うのでしょうか。

そこでピリポをはじめとする弟子たちは、

イエス様に言いました。

「めいめいが少しずつ食べるにしても

二百デナリのパンでも足りないくらいです。
それを私たちが出かけて行って買ってきて、

あの人たちに食べさせるということですか」

ピリポたちは、すぐに計算をしたのです。


目の前にいる人々を見て、

自分たちの出来うる可能性を考えてみたのです。

でも、それはとうてい無理なことでした。

不可能なことだったのです。

皆さん、時々、神様は私たちにも、

とても不可能と思えることをしなさい、

と言われることがあります。

絶対に、

そんなことは無理だ、出来っこない、

ということを言われることがあるのです。

その時は

ピリポのように計算することは止めて、

語られた神様に信頼しましょう。

主がしなさいと語られるなら、

きっと主が方法を持っておられるからです。

このときもイエス様は、

これから自分がしようとしている奇跡のことを知っておられました。

2014年11月21日金曜日

五つのパンと2匹の魚1

聖書の中には、イエス様の生涯について書かれている「福音書」というのが4つあります。

書いた人の名前をとって、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書と呼ばれています。

それぞれ違った視点からイエス様の生涯について書かれているのですが、
この4つの福音書のすべてに、
つまり4つとも全部に出てくるお話というのは、そんなに多くはありません。
イエス様の誕生のことでさえ、マタイとルカにしか詳しく出てこないのです。

ところが、これからする「5つのパンと2匹の魚」というお話は、4つの福音書のすべてに書かれているのです。

それほど弟子たちにとっては忘れることの出来ない特別な出来事だったのでしょう。

そして、そこには現代の私たちにも多くの語りかけがあります。

 
きっと主は、今回のシリーズでもあなたに語ってくださいます。

主に期待しながら、ガリラヤ湖畔でのイエス様と弟子たちの会話に耳を傾けていきましょう。

2014年11月20日木曜日

真実な主に期待して・・

今、いろんな事が次々と起こっている。
その出来事だけに、問題だけに
目を向けるとその渦の中に
巻き込まれそうになる。

しかし、年頭に与えられたみ言葉は
「あなたとともにいる民はみな、
主のわざを見るであろう。
わたしがあなたとともに行うことは
恐るべきものである。」 出エジプト 34 : 10
必ず一つ一つの問題に「恐るべきこと」を
見ていく。「アドナイ・ニシ」と語られた
主の勝利を見ていく。

真実な主のことばを信じて賛美をもって
感謝をもって信頼をもって祈っていこう。
シオン

2014年11月19日水曜日

ここから♪

最近のお気に入りのゴスペルは日本発のオリジナルゴスペルの歌集 風のひびきの「ここから」です(*^o^*)
歌詞がとってもいいんです!
悲しいとき、苦しいときに賛美すると神様の慰め、励ましが与えられて元気になるゴスペルですd(^_^o)

By Hope

2014年11月18日火曜日

ベトナムから

ゴスペルメッセージ オン サタデー ナイトのパーソナリティの純子さんと私のお友達のIさんが今週の主日礼拝に来られました。
ベトナム出身のIさんは朗らかな人です(*^o^*)
礼拝に来られてイエス様のことを信じてとても喜んでおられましたd(^_^o)
クリスチャンにとって永遠のいのちの祝福は本当に喜ばしいことですね!*\(^o^)/*

By Hope

2014年11月17日月曜日

祝福された証し!

昨日の主日礼拝で私たちの教会からカンボジアに遣わされている宣教師の前田さんの証しを聞くことができました。
第一礼拝から夜の礼拝に至る全ての礼拝で証しを語っていただけたことはまさに恵みの時でした。
前田さんの証しを聞くために、
ゴスペル メッセージ オン サタデー ナイトのリスナーのジョセフィーヌさんも午後の礼拝に駆けつけて来られました。
とても祝福された時となりました!(^_^)
証しを聞きながら、私も前田さんのような宣教師になりたい!とさらに強く実感しました!

By Hope

2014年11月16日日曜日

十字架の生涯 イエス・キリスト しるしと不思議 全

あなたの町でも
町をあげてのお祭りがありますか。

私のいる長崎では、
秋に諏訪神社で、
「長崎くんち」
という祭りがあります。

毎年10月7日・8日・9日の3日間
行われます。

これはキリスト教迫害から始まった偶像の祭りですが、
毎年、
県外からも来る人たちがいて、
たくさんの人々でにぎわいます。

イスラエルにも、
お祭りがありました。

「過越の祭り」と
「仮庵の祭り」と
「七週の祭り」
というのは、
その中でも特に大きなものでした。

都のエルサレムに、
イスラエルの中から人々が
やってきました。

今回、お話するのは、
そのお祭りのときの出来事です。

このお祭りが
「過越の祭り」だったのか、
それとも他のお祭りだったのかは、確かなところはわかりません。

天国に行ったとき、
イエス様に聞いてみましょう。

でも、たくさんの人が
お祭りを見るために、
都のエルサレムに
来ていたことは確かでした。

イエス様も弟子たちを連れて、
ユダヤ人の祭りのときに、
エルサレムに上られたのです。


ベテスダの池

エルサレムは、
お祭りを見に来ている人々で、
ごった返していました。

弟子たちも、
きっとイエス様と
いっしょにお祭りに来れたので、
嬉しくて、
楽しみにしてきたことでしょう。

ところが、イエス様は
お祭りなどには目もくれず、

まっすぐに、
べテスダと呼ばれていた池のところ
に行かれたのです。

そこには、
お祭りなどとは
全く関係のない人々がいました。

このべテスダという池の周りには、5つの回廊がついており、
そこに大勢の病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていました。

主の使いが、
時々この池に降りてきて、
水を動かすのですが、
そのとき最初に入った者は、
どのような病気にかかっていても
いやされていたからです。

イエス様は、
そのべテスダに行かれました。

お祭りに浮かれている人々の傍らで
病で、
苦しみ痛んでいる人々のところへ、
主はまっすぐに行かれたのです。

これが私たちの主です。

イエス様です。

もし今あなたが、
困難や苦しみの中で
痛んでいるなら、
主は、
あなたのところに来てくださいます。

周りの人々は、
お祭りに心を奪われ、
あなたのことなど
忘れているかもしれません。

いえ、たとえ心に思っていても、

仕事が忙しすぎて、
あなたのところに
来れないかもしれません。

やらねばならないことが
ありすぎて、
来たくても来れない人も
いるでしょう。

しかしイエス様は、
すべてのことをおいて、
今、痛みの中にいる
あなたのところに
来てくださるのです。

もう、
だれも気にかけなくなって
しまった、
あなたのところに
真っ直ぐ来てくださるのです。

今、あなたが、
どんな病気にかかっていたとしても
あきらめないでください。

今、あなたが、
どんなに孤独の中にあったとしても
失望しないでください。

今、あなたが、
どのような困難の中に
あったとしても、
落胆しないでください。

私たちには、
主イエス・キリストが
おられるのです。

生命をかけて、私たちを愛し、
私たちのところに来てくださる方が
おられるのです。

主イエスは、今、
あなたのところに
来てくださっているのです。

イエス様はべテスダに行き、
ひとりの人に目を留められました。


よくなりたいか

べテスダの池の周りには、
たくさんの病人がいましたが、
その中に、38年もの間、
病気で伏せっている人がいました。

イエス様は彼を見たとき、
すぐに、それが、
もう長い間のことなのが
わかられたのです。

イエス様は、彼に言われました。

「よくなりたいか」

よくなりたいに
決まっているじゃありませんか。

そう思われますか。

私もそう思いました。

けれども牧師になり、
もう30年近くたった今は、
イエス様が、
こう聞かれたのが
わかるような気がします。

考えても見てください。

38年間、
彼は病気で伏せっていたのです。

生まれつきだったとしても、
もう38歳です。

病気になったのが、
もし成人してからなら、
もう60近いことになります。

長すぎました。

あまりにも長すぎたのです。

池の周りに来てはいるものの、
もう彼の中には、
あきらめの気持ちが、
きっと強くあったでしょう。

最初のうちは、
今度こそ池の水が動いたら、
まず初めに飛び込もう。

そしたら直るんだ。
と期待しながら、
待っていたことでしょう。

でも一回、二回、三回、四回と、
いつも誰かが先に行ってしまい、
一年、二年、五年、十年と
経つうちに、
もう彼の中には、
これで一生終わるのではないか
という諦めのようなものが、
あったことでしょう。

でも、
そこにイエス様は来られ、
彼に言われたのです。

「よくなりたいか」と。

何年もの間、
もう聞いたこともなかったことばを
彼は聞きました。

そのとき、
この38年間、
病気で伏せっていた人の中に、
かすかな希望がともり始めたのです。

もしかしたら、
この人が池の水が動くとき、
連れて行ってくれるかもしれない。

本当に久しぶりに、彼は病気が直るかもしれないという期待を持ったのです。

病人は答えました。 



「主よ。私には水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。

行きかけると、もう他の人が先に降りていくのです」



素直に「はい、直りたいです」とは答えられませんでした。



それほどに、彼はきっと痛んでいたのでしょう。

今までの悔しさ、悲しさ、苦しさを、

このことばに一気につめて、イエス様にぶつけたのです。

この人が私を池の中に連れて行ってくれて直してくれるかもしれない、という期待を込めて…。





起きて、床を取り上げて歩きなさい





ところがイエス様は、彼の答えには何も言われずに、

彼の期待していたこととは、全く違うことを言われました。

イエス様は彼にこう言われました。



「起きて、床を取り上げて歩きなさい」



主は、池は必要ではない。

水が動かなくても大丈夫だ。

私は、あなたの考えている方法とは全く違う方法で、あなたを直そう。

あなたが私のことばを聞くなら、

私の権威あることばを聞いて従うなら、

あなたはいま直る。と言われたのです。



「起きて、床を取り上げて歩きなさい」とイエス様の口から、

このことばが解き放たれた瞬間、

この38年間床に伏せっていた人は、直ってしまいました。



そして、主が言われたとおりに、床を取り上げて歩きだしたのです。



イエス様のことばには力があります。

イエス様には権威があるからです。

イエス様が語られたなら、すべてのものはそのことばに従わねばなりません。

病も、悪霊も、自然もです。





主の時



あなたにも、長い間戦い続けている問題が、あるかもしれません。

もう何十年も祈りつづけていることが、あるかもしれません。

あなたの愛する人が、ずーっと病気で、苦しみの中を通られているかもしれません。



長すぎる戦いに疲れを覚え、実は心の中でもうあきらめていたかもしれません。

この祈りは聞かれないのかもしれない。

きっと、この病気は私の十字架なんだ、

そう思われているあなたにも、主は言われます。



「よくなりたいか」



決して、あきらめないでください。

主は、あなたに語られるのです。

そして主が語られたなら、

そのことばは、あらゆる状況を一瞬にして覆すことがおできになるのです。



なぜ、この病気の人のところへ38年目にイエス様は来られたのでしょうか。

5年目でもなく、10年目でもなく、なぜ38年目だったのでしょうか。



私にはわかりません。

でも、これが主の時でした。

確かに、このときが、主の時だったのです。



あなたにも同じように、主の時がくるのです。

主がはっきりと、あなたに語ってくださっている時が来るのです。

確かに、忍耐し待たなければならない時が、私たちにはあるのです。

でも、必ず主の時は来ます。

そして、今これを読んでいるあなたにも、主の時は来ているのです。

まさに今、主はあなたに語っておられます。



「よくなりたいか」と。





主のことばで十分



主が取られた方法は、この病人が考えていたのとは、全く違う方法でした。



主は池の水が動くまで、待つことをされませんでした。

この人を水の中に運ぶことも、されませんでした。



主のことばだけで、十分だったのです。



あなたの中に何年間も持ち続けている方法がありませんか。

こうでなければいけないとか、こうなればきっと直るとか、

あの人が、こうしてくれさえすればうまくいくのにとか思っていませんか。



主が事をなされるのに、それが必要でしょうか。

主は、私たちの方法や考えに縛られる方なのでしょうか。



心を柔らかくして、主イエス様のことばに聞き入りましょう。

主のことばで十分です。

主の御声が語られたなら、それは必ず成るのです。

私たちは、ただ信じて従っていけばいいのです。

それは難しいことではありません。

なぜなら、主は私たちに出来ないことは言われないからです。

いえ、今、あなたが出来ないと思っていても、

主が語られたならば、

そのときから、あなたには、それが出来るようになるのです。



この病人が、38年間伏せっていた床から立ち上がれたように、

今まで全く不可能であったことも、主は私たちのうちに成してくださるのです。





全く新しい人生



38年間彼を縛っていた床を、主は起きて取り上げて歩きなさいと言われました。



しかし、その床を取り上げたとき、まったく新しい彼の人生が始まったのです。



主は、あなたにも言われます。



「床を取り上げて歩きなさい」



あなたは病気で床に伏せってはいないかもしれません。

しかし、きっとあなたにも、今まであなたが生きてきた場所があるはずです。

それは窮屈で、あなたを締めつけてきた場所かもしれませんし、

もしかすると、居心地の良い場所なのかもしれません。



けれども主は、

今までのあなたの人生を縛ってきた過去のものから、

あなたを解き放たれようとするのです。

全く新しい人生のために。



あなたに不信仰を与えた、あなたの古い考えや肉の性質から解放されて、

主のことばに従って歩む、全く新しい信仰の歩みを始めてください。

今まであなたの体験したことのない世界が、あなたを待っています。



主はあなたのところに来て、あなたにことばを与え、

今まで、あなたがどんなに努力しても不可能だったことをなしてくださるのです。



なぜなら、主は、あなたを、愛しておられるからです。

2014年11月15日土曜日

楽しみな日曜日♪

明日の主日礼拝でカンボジア孤児院の現地責任者の前田さんの証しを聞くことができます♪
とても、とても楽しみにしています!*\(^o^)/*
日曜日は大好きなのですが、明日の日曜日は特別に楽しみです!!

By Hope

しるしと不思議7

全く新しい人生

38年間彼を縛っていた床を、
主は起きて取り上げて歩きなさい
と言われました。

しかし、
その床を取り上げたとき、
まったく新しい彼の人生が
始まったのです。

主は、あなたにも言われます。

「床を取り上げて歩きなさい」

あなたは病気で、
床に伏せってはいない
かもしれません。

しかし、
きっとあなたにも、
今まであなたが生きてきた場所が
あるはずです。

それは窮屈で、
あなたを締めつけてきた場所
かもしれませんし、
もしかすると、
居心地の良い場所
なのかもしれません。

けれども主は、
今までのあなたの人生を縛ってきた過去のものから、
あなたを
解き放たれようとするのです。

全く新しい人生のために。

あなたに不信仰を与えた、
あなたの古い考えや
肉の性質から解放されて、
主のことばに従って歩む、
全く新しい信仰の歩みを
始めてください。

今まで
あなたの体験したことのない世界が
あなたを待っています。

主はあなたのところに来て、
あなたにことばを与え、
今まで、
あなたがどんなに努力しても
不可能だったことを
なしてくださるのです。

なぜなら、
主は、
あなたを、愛しておられるからです。

2014年11月14日金曜日

しるしと不思議6

主のことばで十分

主が取られた方法は、
この病人が考えていたのとは、
全く違う方法でした。

主は池の水が動くまで、
待つことをされませんでした。

この人を水の中に運ぶことも、
されませんでした。

主のことばだけで十分だったのです。

あなたの中に
何年間も持ち続けている方法が
ありませんか。

こうでなければいけないとか、
こうなればきっと直るとか、

あの人が、
こうしてくれさえすれば
うまくいくのにとか
思っていませんか。

主が事をなされるのに、
それが必要でしょうか。

主は、私たちの方法や考えに
縛られる方なのでしょうか。

心を柔らかくして、
主イエス様のことばに
聞き入りましょう。

主のことばで十分です。

主の御声が語られたなら、
それは必ず成るのです。

私たちは、
ただ信じて従っていけばいいのです。

それは難しいことではありません。

なぜなら、
主は私たちに出来ないことは
言われないからです。

いえ、
今、
あなたが出来ないと思っていても、
主が語られたならば、
そのときから、
あなたには、
それが出来るようになるのです。

この病人が、38年間、
伏せっていた床から
立ち上がれたように、
今まで、
全く不可能であったことも、
主は、
私たちのうちに
成してくださるのです。

2014年11月13日木曜日

チャペルコンサート

11/24にカンボジア孤児院の現地責任者の前田さんをお招きしてチャペルコンサートが行われます。
現地の貴重なお話を聞くことができます。

今のところいろいろな方々が来ることになっています。
さらに多くの方々が来られると神さまに期待していますd(^_^o)
コンサートに集われた方々が神様の愛によって癒され救われていきますように☆彡


By Hope


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しるしと不思議5

主の時

あなたにも、
長い間戦い続けている問題が、
あるかもしれません。

もう何十年も
祈りつづけていることが、
あるかもしれません。

あなたの愛する人が、
ずーっと病気で、
苦しみの中を
通られているかもしれません。

長すぎる戦いに疲れを覚え、
実は心の中で、もう、
あきらめていたかもしれません。

この祈りは
聞かれないのかもしれない。

きっと、
この病気は私の十字架なんだ、
そう思われているあなたにも、
主は言われます。

「よくなりたいか」

決して、あきらめないでください。

主は、あなたに語られるのです。

そして主が語られたなら、
そのことばは、
あらゆる状況を
一瞬にして
覆すことがおできになるのです。

なぜ、
この病気の人のところへ
38年目に
イエス様は来られたのでしょうか。

5年目でもなく、
10年目でもなく、
なぜ38年目だったのでしょうか。

私にはわかりません。

でも、これが主の時でした。

確かに、
このときが、主の時だったのです。

あなたにも同じように、
主の時がくるのです。

主がはっきりと、
あなたに語ってくださっている
時が来るのです。

確かに、
忍耐し待たなければならない時が、
私たちにはあるのです。

でも、必ず主の時は来ます。

そして、
今これを読んでいるあなたにも、
主の時は来ているのです。

まさに今、
主はあなたに語っておられます。

「よくなりたいか」と。

主の業を見るであろう。

「あなたとともにいるこの民はみな、主の業を見るであろう。
わたしがあなたとともに行うことは恐るべきものであろう。」
出エジプト記 34 : 10
新しい年に、群れに与えて下さったみ言葉です。
神様は真実なお方。
新しい年になって次々に「救いのみ業」を成して下さっています。
更にこれから主の業を、恐るべきことをなさるでしょう。
私たちがどうであろうと、主の真実のゆえに、
十字架の恵みのゆえに、期待して祈っていきましょう。
シオン

奇蹟を信じる

私の大好きなゴスペル「奇蹟を信じる」♪
歌詞がとても好きです。(*^o^*)

″私は信じる あなたの奇蹟を

誰にでも起こる 信じるなら

どんな問題もどんな困難も

解決される しると不思議

永遠の愛と赦しの力


私は信じる あなたの奇蹟を

誰にでも起こる 信じるなら

どんな病も心の傷も

癒される しるしと不思議

永遠の愛と赦しの力″


このゴスペルの作詞者のカナン村上さん自身がこじれきった親子関係の赦しと和解を体験されています。
カナン村上さんご家族に起こった奇蹟のみわざがイエス様を信じるお一人おひとりの人生にも起こると信じています☆彡

By Hope

2014年11月12日水曜日

祝福された交わり!

今日は新しい方が教会に来られました。(^-^)
とても喜びいっぱいの祝福された交わりでした!*\(^o^)/*


By Hope

しるしと不思議4

起きて、床を取り上げて歩きなさい

ところがイエス様は、
彼の答えには何も言われずに、
彼の期待していたこととは、
全く違うことを言われました。

イエス様は彼にこう言われました。

「起きて、
床を取り上げて歩きなさい」

主は、池は必要ではない。

水が動かなくても大丈夫だ。

私は、
あなたの考えている方法とは
全く違う方法で、あなたを直そう。

あなたが私のことばを聞くなら、
私の権威あることばを
聞いて従うなら、
あなたはいま直る。
と言われたのです。

「起きて、
床を取り上げて歩きなさい」
とイエス様の口から、
このことばが解き放たれた瞬間、
この38年間床に伏せっていた人は、直ってしまいました。

そして、主が言われたとおりに、
床を取り上げて歩きだしたのです。

イエス様のことばには力があります。

イエス様には権威があるからです。

イエス様が語られたなら、
すべてのものは
そのことばに従わねばなりません。

病も、悪霊も、自然もです。

奇蹟を信じて

昨日、Yさんのお見舞いに行って来ました。
私と会うと大粒の涙を目に浮かべたYさん。
病の癒しのためにお祈りしました。
イエス様を信じているYさん。
イエス様を信じたたくさんの人が癒されています。
私は奇蹟が起こると信じています!



By Hope

2014年11月11日火曜日

しるしと不思議3

よくなりたいか

べテスダの池の周りには、
たくさんの病人がいましたが、
その中に、38年もの間、
病気で伏せっている人がいました。

イエス様は彼を見たとき、すぐに、それが、もう長い間のことなのが
わかられたのです。

イエス様は、彼に言われました。


「よくなりたいか」


よくなりたいに決まっている
じゃありませんか。

そう思われますか。

私もそう思いました。

けれども牧師になり、
もう30年近くたった今は、
イエス様が、
こう聞かれたのが
わかるような気がします。

考えても見てください。

38年間、
彼は病気で伏せっていたのです。

生まれつきだったとしても、
もう38歳です。

病気になったのが、
もし成人してからなら、
もう60近いことになります。

長すぎました。

あまりにも長すぎたのです。

池の周りに来てはいるものの、
もう彼の中には、
あきらめの気持ちが、
きっと強くあったでしょう。

最初のうちは、
今度こそ池の水が動いたら、
まず初めに飛び込もう。

そしたら直るんだ。
と期待しながら、
待っていたことでしょう。

でも一回、二回、三回、四回と、
いつも誰かが先に行ってしまい、
一年、二年、五年、十年と
経つうちに、
もう彼の中には、
これで一生終わるのではないか
という諦めのようなものが、
あったことでしょう。

でも、そこにイエス様は来られ、
彼に言われたのです。


「よくなりたいか」と。


何年もの間、
もう聞いたこともなかったことばを
彼は聞きました。

そのとき、
この38年間病気で伏せっていた人の中に、
かすかな希望がともり始めたのです。

もしかしたら、
この人が池の水が動くとき、
連れて行ってくれるかもしれない。

本当に久しぶりに、
彼は病気が直るかもしれないという
期待を持ったのです。

病人は答えました。 


「主よ。
私には水がかき回されたとき、
池の中に、
私を入れてくれる人がいません。
行きかけると、もう他の人が先に降りていくのです」

素直に「はい、直りたいです」とは答えられませんでした。

それほどに、
彼はきっと痛んでいたのでしょう。

今までの
悔しさ、悲しさ、苦しさを、
このことばに一気につめて、
イエス様にぶつけたのです。

この人が私を池の中に連れて行ってくれて直してくれるかもしれない、という期待を込めて…。

嬉しい再会!

カンボジア孤児院の現地責任者の前田さんが5年ぶりに長崎に戻って来られました。(^-^)
実に嬉しい再会です!!
カンボジア孤児院の報告を聞くことができるのを心からたのしみにしています♪
また、いつかカンボジア孤児院にも行きたいです!

By Hope

2014年11月10日月曜日

新しいゴスペルタイム♪

長崎教会のゴスペルタイムが昨日から新しくなりました♪
教会音楽を学ぶためにアメリカに留学した経験をもつ川村さんが各ゴスペルグループに的確なアドバイスをくださるようになりました。
いろいろなチームが参加して祝福された時となりました!*\(^o^)/*
来週も楽しみです( ´ ▽ ` )ノ



By Hope


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ゴスペルの力♪

人生にはいろいろなことがあります。
辛い時、生きていくのがやっとの時も、ゴスペルを歌うと元気になります。
ゴスペルには神様の愛と力が溢れているからです。
誰にも言えない心の痛みを神様は受け取ってくださり、愛してくださいます。
ゴスペルを歌うことは私の生きる原動力であり、喜びです(*^o^*)
写真は昨日の公園ライブのときのです。
ゴスペルの素晴らしさがたくさんの痛み、苦しんでいる人々に伝わりますように☆彡

By Hope

しるしと不思議2

ベテスダの池

エルサレムは、
お祭りを見に来ている人々で、
ごった返していました。

弟子たちも、
きっとイエス様といっしょに
お祭りに来れたので、
嬉しくて、
楽しみにしてきたことでしょう。

ところが、
イエス様は、
お祭りなどには目もくれず、
まっすぐに、
べテスダと呼ばれていた
池のところに行かれたのです。

そこには、
お祭りなどとは
全く関係のない人々がいました。

このべテスダという池の周りには、5つの回廊がついており、
そこに大勢の病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていました。

主の使いが、
時々この池に降りてきて、
水を動かすのですが、
そのとき最初に入った者は、
どのような病気にかかっていても
いやされていたからです。

イエス様は、
そのべテスダに行かれました。

お祭りに浮かれている人々の傍らで
病で苦しみ痛んでいる人々のところへ、
主は、まっすぐに行かれたのです。

これが私たちの主です。

イエス様です。

もし今あなたが、
困難や苦しみの中で
痛んでいるなら、
主は、
あなたのところに来てくださいます。

周りの人々は、
お祭りに心を奪われ、
あなたのことなど
忘れているかもしれません。

いえ、たとえ心に思っていても、
仕事が忙しすぎて、
あなたのところに
来れないかもしれません。

やらねばならないことが
ありすぎて、
来たくても
来れない人もいるでしょう。

しかしイエス様は、
すべてのことをおいて、
今、痛みの中にいる
あなたのところに
来てくださるのです。

もうだれも、
気にかけなくなってしまった、
あなたのところに
真っ直ぐ来てくださるのです。

今、あなたが、
どんな病気に犯されていたとしても
あきらめないでください。

今、あなたが、
どんな孤独の中にあったとしても、
失望しないでください。

今、あなたが、
どのような困難の中にあったとしても、
落胆しないでください。

私たちには、
主イエス・キリストが
おられるのです。

生命をかけて、
私たちを愛し、
私たちのところに来てくださる方が
おられるのです。

主イエスは、
今、
あなたのところに
来てくださっているのです。

イエス様はべテスダに行き、
ひとりの人に目を留められました。

2014年11月9日日曜日

喜びの歌!

フィリピンのクリスチャンの方々にも大人気なジャパニーズ ゴスペルは、風のひびき1集の「喜びの歌」です*\(^o^)/*
礼拝の後に、自然と「喜びの歌」を口ずさんでいたみなさんですd(^_^o)
この曲を賛美すると喜びに満たされるので私も大好きなゴスペルです( ´ ▽ ` )ノ

By Hope

新しく♪

今日はインターナショナル サービスに新たに9人のフィリピン出身のクリスチャンの方々が来られました。(^-^)
インターナショナル サービスにたくさんの外国人の方々を導いてくださっている神様に心から感謝します!*\(^o^)/*
ハレルヤ!!

By Hope

しるしと不思議1

夏が近づいてきましたが、あなたの町でもお祭りがありますか。

私のいる長崎では、秋に諏訪神社で、
「長崎くんち」という祭りがあります。

毎年10月7日・8日・9日の3日間行われます。

これはキリスト教迫害から始まった偶像の祭りですが、
毎年、県外からも来る人たちがいて、たくさんの人々でにぎわいます。

イスラエルにも、お祭りがありました。

「過越の祭り」と「仮庵の祭り」と「七週の祭り」

この三つは三大祭と言われ、その中でも特に大きなものでした。

都のエルサレムに、イスラエルの中から人々がやってきました。

今回、お話するのは、そのお祭りのときの出来事です。

このお祭りが「過越の祭り」だったのか、
それとも他のお祭りだったのかは、確かなところはわかりません。

天国に行ったとき、イエス様に聞いてみましょう。

でも、たくさんの人がお祭りを見るために、
都のエルサレムに来ていたことは確かでした。

イエス様も弟子たちを連れて、
ユダヤ人の祭りのときに、エルサレムに上られたのです。

2014年11月8日土曜日

祝福されました!

神様が病のいやしの御業を現してくださったことを感謝します!*\(^o^)/*

By Hope

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十字架の生涯 イエス・キリスト 宣教の開始−悔い改めなさい!

真実な悔い改め

悔い改めと聞くと、
すぐに暗いイメージを抱く人が
多いような気がしますが、
あなたはどうでしょうか。

もしそうでないなら、
あなたは福音を
正しく理解されているのです。

なぜなら悔い改めは恵みであり、
私たちを十字架によって与えられた救いの喜びと平安の中に、
どんなときにも保ち続けてくれる
祝福だからです。

でも多くの場合は、
そういうふうに正しく理解されては
いないのです。

残念ながら、
本来救いと喜びにいたるはずの
悔い改めが、
責め立てられるような
罪責感と自虐的な思いに
変えられてしまっています。

だから人は、
本気で悔い改めようとしないのです。

クリスチャンになってからでさえも...

悔い改めの実を結び、
天の御国の豊かな祝福の中に
生きている人は少ないのです。

多くの方々が悔い改めの実を見ずに、
今なお、
悪魔がもたらす地獄の苦しみの中に
おられるのです。

それは、
主に2つの誤った悔い改めの態度から
来ていると思われます。

まず第一に、
罪に対して、あやふやな態度のまま
成されるいい加減な悔い改めは、
悔い改めがもたらす主の祝福を、
受けることができません。

「私が悪かったです」
という心からの真実な悔い改めは、
実に多くの祝福をもたらしますが、
見せかけだけの形だけの悔い改めは、
主に退けられてしまいます。

主は心をご覧になるからです。

サウルは主からアマレクを打ち、
すべてのものを聖絶するようにと
命じられましたが、
聞き従うことができずに、
肥えた羊や小羊や牛の
最も良いものを惜しみ、
つまらない値打ちのないものだけを
聖絶しました。

預言者サムエルは、
このことを怒り、
サウルのところに行きましたが、
サウルはすぐに
自分の不従順を認めようとせず
「私は主のことばを守りました」
と言い、
サムエルに
「私の耳にはいるあの羊と牛の声は
何ですか」
と問い詰められたときでさえ、
「民が最も良いものを惜しんだのです。
あなたの神、
主にいけにえを捧げるためです」と
民の責任にして、
悔い改めずに言い訳しました。

サムエルが「やめなさい」と言って、
はっきりと
「主の御声に聞き従わず」
と言ったときでさえも
「私は主の御声に聞き従いました」
と言い張ったのです。

その後で、
やっとサウルは自分の罪を認めますが、
その時でさえ自分の面目のために、
サムエルに一緒に帰って
礼拝してほしいと頼むのです。

彼の悔い改めは、
本物ではありませんでした。

もしも彼が自分の不従順を心から認め、
真実に悔い改めていたならば、
主はサウルを退けは
されなかったでしょう。

もしもサウルが、
心から悔い改めていたならば
ダビデの末からではなく、
サウルの末からイエス・キリストが
誕生していたのです。

サウルは悔い改めのない心のゆえに、
主から退けられてしまいました。

そして、主が与えようとされていた
大いなる祝福を失ったのです。



まちがった悔い改め

もう一つは、それとは逆に、
心から自分が悪いと思って
主の前に悔い改めているのですが、
どうしても、
主の赦しを受け取ることができないで、
同じことを、
繰り返し繰り返し
悔い改めている方がいらっしゃいます。

このような方は、
いつまでも、
自分を責め苛んで、
罪悪感の中で
苦しみもがき続けてしまうのです。

このような方は、信仰をもって、
主イエス・キリストが
十字架でなしてくださった完全な赦しを、
受け取って行かなければなりません。

自分の感覚や感情ではなく、
御言葉に対する信仰が必要なのです。

多くの母親が、
自分の子どものことで痛んでいます。

子どもに問題が起こると、
それが病気であれ、
心の問題であれ、
登校拒否であれ、
非行であれ、
こうなったのは自分が悪かったのだ、
と心の深いところでは、
ほとんどの母親は思っているようです。

そして自分を責め続けるのです。

時には何年にもわたって悔い改め続け、
これは悔い改めというよりも、
悔い悔い悔いと
言った方がいいかもしれませんが、
自分を責め続けてしまうのです。

そして中には
病気になってしまう母親さえいます。

確かに、子どもに
何か問題が起こったということは、
母親にも悔い改めねばならないことがあるのでしょう。

しかし、
主の前に心を注ぎだし
真実に悔い改めるならば、
ただ一度の悔い改めで、
あなたの罪は赦され、
あなたが失敗したと思った、
その取り返しがつかないと
思っていることさえ、
全能の神である主は
益としてくださるのです。

そうです。

あなたのお子さんにとっても、
必ず益と、最善としてくださるのです。

それが私たちの主です。

不可能のない
愛の神であられるイエス様を
信じてください。

あなたの感覚や感情に
サタンは訴えてきますが、
それに耳を貸してはならないのです。

私たちは、
神の御言葉に、
十字架の恵みに
目を留めるべきなのです。



自分の罪を悔い改める

さらに悔い改めるとき、
注意しなければならないことがあります。

真剣であるにもかかわらず、
的がはずれてしまい、
十分に、主の祝福を
見ていないことがあるのです。

ヨハネの手紙第一に

「私たちが自分の罪を言い表すなら、
神は真実で正しい方ですから、
その罪を赦し、
すべての悪から
私たちをきよめてくださいます」

とあるように、
私たちは「自分の罪」を言い表し、悔い改めるのです。

ところがしばしば、
特にとりなしの祈りのとき
よくあるのですが、
他の人の罪を、
一生懸命言い表している方が
おられるのです。

夫や妻のことを祈るときも、
子どものことを祈るときも、
日本のことを祈るときも、
気づいてみれば、

「あの人は、こんなこともあんなこともしていますが、どうか憐れんでください。
赦してください」と祈るのです。



「この国は
偶像礼拝と姦淫の罪で満ちていますが、
どうか彼らを憐れんでください」
と祈るのです。

なるほど、この祈りは
まちがいではありません。

しかし悔い改めは
「他の人」の罪を告白するのでは
ないです。

あくまで
「自分の罪」を告白するのです。

自分の罪を告白するときに、
主は喜んで赦し、
十字架の力が流れてくるのです。

日本の罪を悔い改めるときも、
私たちは自分のこととして
祈らなければなりません。

「私たちの偶像礼拝の罪、
この汚れに満ちた姦淫の罪、
この罪をどうか赦してください。

私たちはまだあなたの事を知らず、
本当の神様がわからないでいるのです。

それはイエス様を知っている私が、
十分に、彼らに、あなたのことを
伝えていないからなのです。

それは、私たちの罪です。

どうか私たちを赦し、
この国を憐れんでください」

と祈るべきなのです。

ひとりの韓国人のクリスチャン女性が、
ある日本人男性と結婚しました。

彼は暴力団の幹部だったのです。

彼女は、そのことを知りませんでした。

結婚して日本に来て、
しばらくして、
ご主人がやくざだったということを
知ったのです。

夫は放蕩三昧をして
悪いことばかりしていました。

彼女は耐え切れずに、
主に叫びました。

そのときです。

ご主人のために祈ろうとした
そのときに、
主の御声が聞こえてきたのです。

「お前が悪い」と。

彼女は耳を疑いました。

しかし確かに、主が語られたのです。

彼女の目からは、
涙があふれてきました。

夫に対する主の憐れみと愛が、
彼女の心にあふれてきました。

主に促されて彼女は
「自分の罪」を悔い改めたのです。

彼女の祈りは天に、
そして夫に届きました。

主は彼女の祈りを聞かれました。

それどころか、
やくざから足を洗った夫とともに、
今では主のために働いているのです。

今は、牧師夫妻として遣わされた
以前、私の仕えている長崎教会で
主に仕えていたの方のお話をします。

ご主人が遭難してしまったとき、
家で待つていた奥様に、
主が導いたのは
悔い改めの祈りだったのです。

「私が悪かったのです」

と奥様が聖霊の恵みと導きの中で
祈られたときに、
ご主人の遭難していた船の風向きは
変わり、
奇跡的に助かったのでした。

奥様が、
夫のことに腹を立てているときに
は、
何も起らなかったのです。

自分の罪を悔い改めること、
これは大きな主の力、
十字架の力を解き放ちます。

他人の罪ではなく、
自分の罪を、
聖霊の助けと恵みをいただいて、
悔い改めたいものです。



きよめの力

悔い改めというと、
私たちはどうしても過去の罪の赦し、
今まで犯してしまった
罪の赦しということばかり
目が向いてしまいます。

しかし、主の十字架の力は、
過去にだけとどまるものでは
ないのです。

先ほどの御言葉の中に、

「すべての悪から
私たちをきよめてくださいます」
とありますが、

この「きよめる」という言葉は、
罪の染みを取り除く
という意味があります。

つまり、
私たちの過去に犯した罪を赦して、
義としてくださり
白くしてくださるだけでなく、
これから後の将来においても、
その告白した罪と誘惑に
打ち勝っていく力が、
主の十字架から与えられてくる
ということなのです。

主は私たちが
真実に自分の罪を告白するとき、
私たちを赦し、きよめて、
すべての悪に打ち勝つ勝利者として、
本当の姿へと変えてくださるのです。

「悔い改め」は、
私たちの過去をきよめるだけでなく、
私たちの将来、未来までも
きよくする力があるのです。

なぜなら、
神が時間を創造されたのであり、
主には不可能はないからです。



悔い改めの恵み

悔い改めは恵みです。

神が弱く惑わされやすい私たちに、
失敗ばかりして、まちがえてしまう
私たちに与えてくださった、
すばらしい恵みなのです。

モーセもダビデも罪人で、
弱さを持った失敗者でした。

しかし彼らは、主の前に
真実に悔い改めた人たちでした。

だから主は喜んで神の器、
主のしもべとして用いられたのです。

ペテロをはじめとする12弟子たちも、
主が十字架にかかる
その時に裏切った人たちでした。

しかし彼らは、
主の憐れみと恵みの中で、
悔い改める心を持っていました。

だから、
彼らは主の愛の中で用いられたのです。

私たちも弱さを覚えることが
しばしばあります。

罪の中に沈み、
失敗の中で落胆することでしょう。

しかし、私たちは、
この悔い改めの恵みがあることを
覚えてください。

十字架は今も、
私たちのために、
カルバリの丘から叫び続けているのです。

そして、
その前で真実に悔い改める者たちに、
主の赦しときよめの力は
流れ続けているのです。

ともに主の前に出て、
この恵みの力をいただきましょう。

心からの悔い改めを通して。

いやしの集会のご案内

本日、16時から17時半まで神のしもべ長崎教会会堂でいやしの集会が行われます。 

実際に病のいやしのためにお祈りする時を持ちます。 
入場無料です。
このいやしの集会でパニック障害、突発性難聴などの病が癒されています。
この機会にぜひお越しください。(^-^)


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2014年11月7日金曜日

十字架の生涯を贈られたイエス・キリスト 宣教開始篇

働きの前の荒野での試み
30歳になったとき、イエス様は家を出て、福音宣教を開始されました。
そのとき、まず最初にされたのが、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられることでした。

そして聖霊に満たされたイエス様は、御霊に導かれて、なんと荒野に行かれるのです。

そこで悪魔の試みに会われ、誘惑の中を通られるのです。

イエス様は御霊に満たされ、
すぐに福音を語るために宣教地に行かれたのではなかったのです。

イエス様は、福音宣教の前に、悪魔の誘惑に会うために、わざわざ荒野に行かれたのです。

しかも、それは御霊に導かれてでした。

イエス様は荒野で40日の断食をされたあと、空腹を覚えられます。

その中で悪魔の誘惑を退けられ、
そして御霊の力を帯びて、ガリラヤに帰られて、宣教を開始されるのです。

私たちも主に従っていくときに、
生涯の召しや人生における大切な働きの前に、
とても辛い経験や、試みの中を通されることがしばしばあります。

主はあえて私たちを荒野へと追いやり、
悪魔の誘惑の中で私たちを練りきよめ、
強くして働きのために訓練し整えてくださるのです。

罪のなかったイエス様が洗礼を受けられたばかりでなく、
悪魔の試みに会うために、御霊に導かれて荒野へと行ってくださったのです。

それは、私たちが通るすべての道を通るためでした。

私たちが通らねばならない道を、イエス様は決して避けることなく、喜んで通ってくださったのです。

そして、イエス様は勝利し、私たちに勝利の模範を示し、与えてくださったのです。

荒野での悪魔の誘惑に勝利されたイエス様は、御霊の力を帯びてガリラヤに帰り、宣教を開始されます。

そのとき、初めに示されたことが弟子たちへの召命でした。

イエス様は、エルサレムではなく、
人々がガリラヤから預言者は起こらないと言っていた、
そのガリラヤで宣教を開始し、弟子を呼び召し出されるのです。

もちろん、イエス様はエルサレムをこよなく愛しておられました。

しかし主が愛された町エルサレムには、
このとき弟子たちとして主が呼び出される者は見あたらなかったのです。

異邦人のガリラヤと呼ばれた、
その地の人々を、主はご自分の弟子として選ばれたのでした。

主はあなたがどこにいたとしても、そこに来てくださいます。

人々は、あなたに目をとめないかもしれません。

けれども主はそこに来て、
あなたの心をご覧になり、
あなたの名を呼んで弟子として下さるのです。


シモン・ペテロの召命

イエス様が語る、神の言葉を聞いた群衆たちは、主のところに押し迫っています。

それでイエス様は、漁師に頼んで、
ガリラヤ湖の湖畔にあった小舟の一つに乗って、
少し漕ぎだしたところから群衆に教えられました。

話が終ったとき、その小舟の持ち主だったシモンに、
主は「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われました。

実はシモンは、昨晩夜通し漁に行ってきたところだったのです。

しかも一匹も取れなかったのです。

こんなことは滅多にないことでした。

捕れるはずの魚が、まったく一匹も取れなかったのです。

シモンは疲れていました。

やっと網を洗って片づけたばかりでした。

もう体も心もへとへとだったのです。

そのときイエス様が言われたのです。
 
「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」。
 
このころイエス様は、すばらしい御言葉を語り、
力ある奇跡やいやしのわざを始めていらっしゃいました。

それで多くの群衆が周りに集まり始めていました。

とは言っても、やはりイエス様は大工でした。

しかし、シモンはプロの漁師でした。

しかもガリラヤ湖に関しては熟知しているプロのプロでした。

ですから、シモンは思わずも、ひとこと言いました。
 
「私たちは夜通し働いたのですよ。それでも何一つとれなかったのです」と。
 
しかし彼は「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」と言って、
主の言われたことに従ったのです。

まさか魚が捕れるとは思ってもいなかったでしょう。

また疲れるだけだと思っていたかもしれません。

けれどもシモンは、イエス様の言葉に従ったのです。

そのとき奇跡が起こりました。

昨晩プロの中のプロだったシモンが夜通し働いても一匹も取れなかった魚が、
イエス様の言葉どおりに従ったときに、
網が破れそうになるほど、たくさんの魚が取れたのです。

彼らの舟だけでは入り切らないので、
仲間の者に合図して、助けに来てもらわなければなりませんでした。

そして魚を両方の舟にあげたところ、あまりにいっぱいだったので2そうとも沈みそうになりました。

これを見たシモンたちは驚き、イエスの足もとにひれ伏して言いました。
 
「私のような者から離れて下さい。私は、罪深い人間ですから。」
 
しかしイエスは、このときシモンにこう言われたのです。
 
「こわがらなくてよい。これから後、あなたは人間を取るようになるのです」。
 
舟が陸に着いたとき、彼らはもう何もかも捨てて、イエス様に従っていきました。

主は、あなたのところにも来られます。

あなたの日々の生活のただ中に来られて、
シモンに語られたように、あなたにも語られるでしょう。

「深みに漕ぎ出して網をおろしなさい」と。
 
そのとき、あなたが、どんなにそれがむだだと思えても、
そんなことをしても何にもならないと思っても、
主がおっしゃる言葉に従ってほしいのです。

シモンが従ったように。

もしあなたが、そのとき、どんなに疲れていても、心が痛んでいても、主の言葉には従ってみてください。

あなたの体の疲れも、心の痛みも忘れてしまうほどの祝福と恵みを、
主は、あなたに用意して、待っていてくださるのです。

驚くあなたに、主はきっと言われることでしょう。
 
「これから後、あなたは人間をとるようになるのです」と。
 
そして、あなたは人生のすべてを、この方に捧げて、すべてを捨てて従っていきたいと思われるでしょう。
 
 
ヤコブとヨハネの召命


シモン・ペテロばかりでなく、
シモンの兄弟アンデレも、
別の兄弟ゼベダイの子ヤコブとヨハネも、
すぐに舟も父も残して、イエス様に従っていきました。 

ヤコブもヨハネも、父が大好きでした。

とても尊敬していたのです。

そして彼らの家は裕福でした。
(網元だったという説もあります)

彼らは約束されている将来も、
大好きな尊敬する父も、そこに置いて、イエス様に従っていきました。

彼らは、イエス様に惚れ込んでしまったのでしょう。

そして、それはまちがいではありませんでした。

彼らは人生のすべてをかけても、決して後悔することのない方に、
否、それどころか、もっとも確かな方に、従っていったのです。

あなたはどうでしょう。

あなたがかけているものは、あなたが心を注いでいる方は、
たった一度だけの、
あなたにしか生きれない人生をかけるのにふさわしいですか。

いつか必ず、あなたにも終わりが来ます。

そのとき、あなたは決して後悔することのない道を歩いておられますか。

イエス様に従って行く道は、決して後悔することのない、確かな、そして最高の道なのです。



取税人マタイの召命


イエス様の弟子の中に、取税人のマタイという人がいます。

当時、取税人というのは、もっともユダヤ人たちからは嫌われ、軽蔑されていました。

というのは、イスラエルはローマの支配下にあり、植民地のようなものでした。

取税人は、そのローマの手先になって、
同胞のユダヤ人から税金を取り立てて、ローマに渡すのです。

しかも、そのときに多く同胞から取り立てて、
自分の懐に入れてピンはねをするのが普通でした。

ですから人々は、罪人と同じように取税人を呼んでいたのです。

ところが、イエス様は取税所に座っていたマタイのところに来て

「わたしについて来なさい」と、彼を呼ばれたのです。

みんなに嫌われていた彼を、イエス様は呼ばれました。

マタイは、すぐに立ち上がって、イエス様に従いました。

イエス様の周りには、取税人や罪人が、たくさんいました。

あるとき彼らがイエス様と一緒に食事をしていると、パリサイ人たちが弟子たちに聞いたのです。


「なぜ、あなたの先生は、取税人や罪人と一緒に食事をするのですか」。


これを聞いていたイエス様は言われました。


「医者を必要とするのは丈夫なものではなく、病人です。」


「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と。


私の教会に、
この御言葉を通してイエス様に救われ、
いまは宣教師になって、カンボジアに孤児たちの世話に行っている人がいます。

彼女は、自分は罪人だと知っていました。

そして、そんな罪人の自分は愛される資格はないと思っていたのです。

だれも愛してはくれないと思い込んでいたのです。

しかし主は、その彼女を命をかけて愛し、その名を呼ばれたのです。

彼女は、イエス様についていきました。

主が、彼女を呼んでくださったからです。

主は心をご覧になるのです。

罪を知っている心、弱さと痛みを覚えている心を、主は決して蔑まわれません。

その心に来てくださり、救いいやし、そして名を呼んで召してくださるのです。



12弟子の選択

イエス様の周りに群衆が押しかけ、弟子の数が増えていきました。

このころ、イエス様は山に行き、神に祈りながら夜を明かされます。

そして、弟子たちの中から12人をお選びになり、彼らに使徒という名をつけられました。

イエス様は、ご自分の身近に置く12弟子を選ばれるときも、
父なる神に祈り、徹夜して父なる神の御心を聞き、尋ね求められました。

そして、イエス様を裏切ることになるイスカリオテのユダも弟子の中に加えられたのです。

きっと私たちなら、省いてしまうのではないでしょうか。

しかしイエス様は、父なる神様の御心の中にご自分を従わせなさいました。

やがて自分を裏切ることになるユダも、
イエス様は退けることなく、12弟子の中に父に従って入れられたからです。

私たちも大切な決定をするときに、
本当に主の前に出て時間をかけて祈り、時には徹夜して祈り、
主の御心を尋ね求める必要があるのではないでしょうか。

そして私たちの受け入れがたいことを語られたり、示されたとしても、
主が望まれることに、私たちは従っていくべきなのです。

イエス様はそうなさいました。

私たちよりも、はるかに高い計画を持っておられる主の御手の中に、
私たちの思いや考えをゆだねるときに、
初めて私たちも、イエス様が父なる神様に従われたように、主に従っていけるのです。

日本二十六聖人上陸地〜時津港〜

先日、日本二十六聖人が上陸したと言われている時津港のすぐ近くでデイキャンプを行いました。
1597年2月4日 日本二十六聖人は時津港に上陸し西坂へ向かいました。
2015年の2/4か2/6に日本二十六聖人の足跡を辿る殉教祈りのツアーがありますのでぜひお越しください。(^-^)

Hope

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2014年11月6日木曜日

高熱が下がった!

Aさんの高熱のいやしのために電話口でお祈りしました。
時間を越えて、空間を越えて働かれる全能の神様に期待してお祈りしました。
すると40.2度あった熱が瞬時に38.7まで下がりました!
熱が下がったAさんはびっくりしつつも大喜びされていました!*\(^o^)/*
神様はいやし主です。
ハレルヤ!!

Hope

長崎港にイルカが・・・

今日のニュースで、長崎港に
イルカが数頭迷い込んできていると
伝えてました。
異常気象となり海の世界にも
何か異変が起きてる感じです。

一週間前にいった彼杵の海で
「娘よ。備えなさい。」と語られた事が
思い起こされます。
日々が備えです。
主にお会いする為の備えです。
「あなたはあなたの神に会う備えをせよ。」
アモス 4 : 12
シオン

新しい出会い

教会のデイキャンプでベトナム出身のIさんとお友達になりました(*^o^*)
ゴスペル メッセージ オン サタデー ナイトのパーソナリティーの純子牧師とIさんとデイキャンプで記念写真を撮りました♪
Iさんがさらに真の神イエス・キリストの愛を深く体験することができますように☆彡

By Hope

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国際色豊かなデイキャンプ

今回の教会のヤングデイキャンプは、国際色豊かなデイキャンプとなりました。
アメリカ、ベトナム、フィリピン、日本の若者が参加しました。
本当に祝福されたデイキャンプでしたd(^_^o)
次回は、インドネシア、ウガンダ、コンゴ、ホンジュラスのメンバーも参加できますように( ´ ▽ ` )ノ


By Hope


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理想の夫婦

ゴスペル メッセージ オン サタデー ナイトのパーソナリティーの木原牧師ご夫妻♪
幸せいっぱい、笑顔が素敵なお二人です(*^o^*)
イエス・キリストにある真の愛に溢れたお二人は私の理想の夫婦です( ´ ▽ ` )ノ


By Hope
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2014年11月4日火曜日

デイキャンプ!

今日は若者たち中心のデイキャンプが行われました*\(^o^)/*
晴天の青空の中、とっても祝福されました!(*^o^*)

By Hope

2014年11月3日月曜日

11月1日の番組、音声と映像アップ

11月1日に生放送された番組の音声と映像がアップされました。
どうぞ視聴下さい。
       http://nagasakich.jp/message/gospelmessageradio.html



若者たちのHillsong

今週の長崎教会のゴスペルタイムでインターナショナルな若者たちがHillsongの「Still」を賛美しました。
Hillsongが大好きな若者たち(*^o^*)
前回の「One way」と同様に今回も最高でした!d(^_^o)


By Hope

2014年11月1日土曜日

栄光をあらわしたまえ

最近のお気に入りのゴスペルは風のひびき2集の「栄光をあらわしたまえ」です。
作詞作曲者のパベルさんはチェコ教会の方です。(^_^)
「栄光をあらわしたまえ」は歌詞もメロディーもとても良いですd(^_^o)
神さまを心からworshipできる曲です♪



By Hope


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職場に復帰することができた!

Aさんの大阪のお友達Yさんが腎臓を患い職場を解雇されました。
このまま症状が悪化すると透析せざるを得ない状況でした。
Aさんと電話口でYさんのいやしのために心を合わせてお祈りしました。
空間を越えて働くことができる神さまに期待して長崎から大阪に居るYさんのためにお祈りしました。
後日、YさんからAさんに電話がありました。
病院で検査したところ、腎臓が回復してきており、今のところ透析しなくて良いとの素晴らしい結果を聞くことができました!
それだけにとどまらず、
解雇された職場に、復帰することができるようになったと歓喜のニュースを聞くことができました!
Yさんの腎臓をいやし、職場に復帰するまで回復するという素晴らしいみわざを現してくださった神さまは素晴らしいお方ですd(^_^o)

By Hope

十字架の生涯の始まり�

キリストの十字架



あなたが行っている教会には、十字架がありますか。

もちろん、ありますよね。



では、どうして教会には、十字架があるのでしょう。



それは、イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなって、十字架で死んでくださったからです。



イエス・キリストのあの十字架によって、私たちは赦され、義とされ、救われたのです。


だから教会には、必ず十字架があるのです。

十字架のない教会は偽物です。

決して行かないでください。

たとえ聖書を使っていても、キリスト教の名前を使っていても、

十字架がなければ、それは本物ではありません。



それほど十字架は、キリスト教にとって大事なのです。

なぜなら、イエス・キリストの十字架—そこに救いがあるからです。

使徒パウロもコリント書の中で、こう言っています。



「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(�コリント1章18節)



「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです」(�コリント1章23節)



「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、

すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」(�コリント2章2節)



ところでイエスさまは、最後に十字架にかけられたときだけ、十字架を負われたのでしょうか。

そうではなかったのです。

確かにあの荒削りの十字架を、その身に負って、罪の身代わりになって死んでくださったのは、

3年半の宣教活動の最後の「あの時」だけでした。



しかし、彼の生涯はその誕生のときから、すでに十字架の生涯だったのです。

神であられた方が人となったそのときから、もうすでに十字架の生涯が始まっていました。



今回は、イエスさまの誕生のときのことから話を始めていきましょう。





イエス・キリストの誕生



イエス・キリストがお生まれになったとき、彼はなんと家畜小屋で生まれました。

しかも最初に布にくるまれて寝かせられた場所は、馬の餌を入れる飼い葉おけだったのです。



ちょうどそのころ全世界の住民登録がありました。

しかも、この人口調査は、自分の家系でもあり血筋でもある先祖の町に帰って登録することになっていました。

それで、ヨセフは身重になっているマリヤもいっしょに連れて、

ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町に上って行ったのです。


彼はダビデの家系であり、血筋でもあったからです。



このベツレヘムで、イエスさまは生まれました。

マリヤの月が満ちたからです。

そのときヨセフとマリヤは家畜小屋にいました。

宿屋はどこもいっぱいで、彼らを泊めてくれるところは、どこにもなかったのです。

なんと人類の救い主、私たちのために人となってくださった神の御子イエスさまが、

この地に誕生するときに、私たち人類はその場所を持っていなかったのです。

家畜小屋しか、イエスさまのために用意しなかったのです。



しかし実は、それこそイエスさまにふさわしかったのです。

私たちの罪の身代わりとなって、

十字架にかかるために来てくださったイエスさまに、ふさわしかったのです。

本当ならイエスさまこそ最高の宮殿で最高の設備の中で出産されるべきでしょう。

しかし、それは神の御心ではありませんでした。



彼は、ご自分を無にされました。

もっとも惨めで、みすぼらしいところに来てくださったのです。

それは罪にまみれて、もっとも惨めでみすぼらしくなっている人間をも救うためでした。


そしてそれこそが、彼の何にもまして願っていたことでした。

だから、どんな暖かい布団よりも、どんなすばらしい設備よりも、

こここそが救い主である彼にふさわしいところだったのです。

なぜなら十字架以外に、私たち罪人を救う道はないのですから。



イエスさまは、このように誕生のときから十字架の道を歩いておられました。



「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、

ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」(ピリピ3章6節—7節)





大工として



イエス・キリストは30歳のときに家を出て、宣教活動を開始されます。

それまでの間、イエスさまは、マリヤとヨセフのもとで仕えられるのです。

成人してからは、大工として家族を支えていました。

イスラエルは、木の文化ではなく、石の文化なので、

大工といっても取り扱うのはほとんど石ですから、石工と言ったほうがいいかもしれません。

ですからイエスさまは、きっと筋骨隆々とした男性的な体つきをしていたと思います。




神の子であられた方が、

両親に仕え、人々に大工として仕えながら30歳になるまで、

神の時を待たれたのです。

イエス・キリストは神の時が来るまで、ご自分で行動を開始されることはなかったのです。



もし私たちなら、両親を見、人々を見、暗い世の中や律法主義のはびこっている宗教界を見て、

がまんできずに、すぐに行動を開始してしまうのではないでしょうか。



でも、イエスさまは黙って自分の置かれた場所で、神の時が来るまで待たれたのです。


毎日、毎日、神が置かれた場所で、同じようなくり返しの日々を送りながら…。

神の御子であられた方が待たれたのです。

このときイエスさまは忍耐をもって黙って静かに毎日の生活の中で十字架を負われていたのです。



私たちも神の時が来るまで、主が置かれた場所で、いま負うべき十字架を負っていきましょう。

それは目立たないかもしれません。

しかし神さまはあなたをご覧になって、主の時を用意しておられるのです。

その時まで、静かに感謝しながら、忍耐をもって、その場所で十字架を負っていきましょう。

イエスさまは言われました。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、

自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(ルカ9章23節)





イエスさまの受洗



イエス・キリストは公生涯と言われている宣教活動に入る前に、まずされたことがあります。

それは、洗礼を受けることでした。



すでにバプテスマのヨハネが現れ、

ユダヤの荒野で「悔い改めさない。天の御国が近づいたから」と教え宣べ伝えていました。

そして、それを聞いた多くの人々が、

エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域から出て来て、

自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていました。

バプテスマのヨハネが授けていたのは、悔い改めのバプテスマでした。



そこへ、イエスさまがヨハネからバプテスマを受けるためにガリラヤからヨルダンに来られたのです。

ヨハネは、びっくりして言いました。



「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか」

 

ヨハネは、なんとかしてイエスさまに、そうさせまいとしました。

イエスさまは罪人ではありません。

彼は人となってくださいましたが、罪は決して犯されなかったのです。

彼は罪そのものとなってくださいましたが、彼自身のうちには何の罪もなかったのです。


ですから、彼が悔い改めのバプテスマなどを受ける必要はないのです。



ところがイエスさまは、ヨハネに答えて言われました。



「いまはそうさせてもらいたい。

このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」




こうしてイエスさまが、悔い改めのバプテスマを受けられて水から上がられると、

天が開け、神の御霊が鳩のように降ってイエスさまの上に来ました。

そして天から、こう告げる声が聞こえました。



「これは私の愛する子。私はこれを喜ぶ」



本来イエスさまは、ヨハネのバプテスマを受ける必要はなかったのです。

しかし完全な人となられたイエスさまは、すべての点で私たち罪人と同じようになられたのです。

こうして彼が自らを低くしてバプテスマを受け、罪人のひとりに数えられたとき、

父なる神は、そのへりくだりと従順のゆえに天より御霊を注ぎ、声をかけられました。




イエスさまは、人間が通らねばならない道をすべて通過するために、このバプテスマを受けられたのです。

それはまさに彼によって正しいふさわしいことでした。



イエスさまは、このように宣教活動の初めから、罪人のひとりに数えられ、十字架の道へと向かって行かれました。



私たちも主の御心に従っていくとき、しっかりと十字架を負いながら福音宣教していきたいものです。

私たちが、しっかりと十字架を負うそのときに、

主は喜んで私たちに主の御霊を注ぎ、天より声をかけてくださることでしょう。



「あなたは私の愛する子。私はあなたを喜ぶ」と。





十字架の道



イエス・キリストは、人となって、この地上に生まれて来られたときから宣教活動に入られるときまで、

ずっと十字架の道を歩まれていました。

そして、言うまでもなく、3年半の公生涯と言われる宣教活動の間、

イエス・キリストは十字架の道を歩み続け、カルバリの丘に向かって行かれたのです。


主のいやしも奇跡も、悪霊追い出しも、十字架の生涯から流れ出てきた主の恵み以外の何ものでもないのです。



イエス・キリストは、父なる神の御心の中を生きられました。

父との絶え間ない交わりの中で、私たちの主イエスさまは、御声に聞き従い通されたのです。

そして、その道は十字架の道でした。

その道を通して、主は多くの実を残されたのです。



私たちも、この主イエスさまに聞き従って、十字架の道を行きましょう。

それは、必ずしも人の目には華やかな道には見えないことがあるかもしれませんが、

必ず、多くの実を残す、主の喜んでくださる道なのです。



「十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」


(マタイ10章38節)