2014年11月1日土曜日

十字架の生涯の始まり�

キリストの十字架



あなたが行っている教会には、十字架がありますか。

もちろん、ありますよね。



では、どうして教会には、十字架があるのでしょう。



それは、イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなって、十字架で死んでくださったからです。



イエス・キリストのあの十字架によって、私たちは赦され、義とされ、救われたのです。


だから教会には、必ず十字架があるのです。

十字架のない教会は偽物です。

決して行かないでください。

たとえ聖書を使っていても、キリスト教の名前を使っていても、

十字架がなければ、それは本物ではありません。



それほど十字架は、キリスト教にとって大事なのです。

なぜなら、イエス・キリストの十字架—そこに救いがあるからです。

使徒パウロもコリント書の中で、こう言っています。



「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(�コリント1章18節)



「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです」(�コリント1章23節)



「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、

すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」(�コリント2章2節)



ところでイエスさまは、最後に十字架にかけられたときだけ、十字架を負われたのでしょうか。

そうではなかったのです。

確かにあの荒削りの十字架を、その身に負って、罪の身代わりになって死んでくださったのは、

3年半の宣教活動の最後の「あの時」だけでした。



しかし、彼の生涯はその誕生のときから、すでに十字架の生涯だったのです。

神であられた方が人となったそのときから、もうすでに十字架の生涯が始まっていました。



今回は、イエスさまの誕生のときのことから話を始めていきましょう。





イエス・キリストの誕生



イエス・キリストがお生まれになったとき、彼はなんと家畜小屋で生まれました。

しかも最初に布にくるまれて寝かせられた場所は、馬の餌を入れる飼い葉おけだったのです。



ちょうどそのころ全世界の住民登録がありました。

しかも、この人口調査は、自分の家系でもあり血筋でもある先祖の町に帰って登録することになっていました。

それで、ヨセフは身重になっているマリヤもいっしょに連れて、

ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町に上って行ったのです。


彼はダビデの家系であり、血筋でもあったからです。



このベツレヘムで、イエスさまは生まれました。

マリヤの月が満ちたからです。

そのときヨセフとマリヤは家畜小屋にいました。

宿屋はどこもいっぱいで、彼らを泊めてくれるところは、どこにもなかったのです。

なんと人類の救い主、私たちのために人となってくださった神の御子イエスさまが、

この地に誕生するときに、私たち人類はその場所を持っていなかったのです。

家畜小屋しか、イエスさまのために用意しなかったのです。



しかし実は、それこそイエスさまにふさわしかったのです。

私たちの罪の身代わりとなって、

十字架にかかるために来てくださったイエスさまに、ふさわしかったのです。

本当ならイエスさまこそ最高の宮殿で最高の設備の中で出産されるべきでしょう。

しかし、それは神の御心ではありませんでした。



彼は、ご自分を無にされました。

もっとも惨めで、みすぼらしいところに来てくださったのです。

それは罪にまみれて、もっとも惨めでみすぼらしくなっている人間をも救うためでした。


そしてそれこそが、彼の何にもまして願っていたことでした。

だから、どんな暖かい布団よりも、どんなすばらしい設備よりも、

こここそが救い主である彼にふさわしいところだったのです。

なぜなら十字架以外に、私たち罪人を救う道はないのですから。



イエスさまは、このように誕生のときから十字架の道を歩いておられました。



「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、

ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」(ピリピ3章6節—7節)





大工として



イエス・キリストは30歳のときに家を出て、宣教活動を開始されます。

それまでの間、イエスさまは、マリヤとヨセフのもとで仕えられるのです。

成人してからは、大工として家族を支えていました。

イスラエルは、木の文化ではなく、石の文化なので、

大工といっても取り扱うのはほとんど石ですから、石工と言ったほうがいいかもしれません。

ですからイエスさまは、きっと筋骨隆々とした男性的な体つきをしていたと思います。




神の子であられた方が、

両親に仕え、人々に大工として仕えながら30歳になるまで、

神の時を待たれたのです。

イエス・キリストは神の時が来るまで、ご自分で行動を開始されることはなかったのです。



もし私たちなら、両親を見、人々を見、暗い世の中や律法主義のはびこっている宗教界を見て、

がまんできずに、すぐに行動を開始してしまうのではないでしょうか。



でも、イエスさまは黙って自分の置かれた場所で、神の時が来るまで待たれたのです。


毎日、毎日、神が置かれた場所で、同じようなくり返しの日々を送りながら…。

神の御子であられた方が待たれたのです。

このときイエスさまは忍耐をもって黙って静かに毎日の生活の中で十字架を負われていたのです。



私たちも神の時が来るまで、主が置かれた場所で、いま負うべき十字架を負っていきましょう。

それは目立たないかもしれません。

しかし神さまはあなたをご覧になって、主の時を用意しておられるのです。

その時まで、静かに感謝しながら、忍耐をもって、その場所で十字架を負っていきましょう。

イエスさまは言われました。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、

自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(ルカ9章23節)





イエスさまの受洗



イエス・キリストは公生涯と言われている宣教活動に入る前に、まずされたことがあります。

それは、洗礼を受けることでした。



すでにバプテスマのヨハネが現れ、

ユダヤの荒野で「悔い改めさない。天の御国が近づいたから」と教え宣べ伝えていました。

そして、それを聞いた多くの人々が、

エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域から出て来て、

自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていました。

バプテスマのヨハネが授けていたのは、悔い改めのバプテスマでした。



そこへ、イエスさまがヨハネからバプテスマを受けるためにガリラヤからヨルダンに来られたのです。

ヨハネは、びっくりして言いました。



「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか」

 

ヨハネは、なんとかしてイエスさまに、そうさせまいとしました。

イエスさまは罪人ではありません。

彼は人となってくださいましたが、罪は決して犯されなかったのです。

彼は罪そのものとなってくださいましたが、彼自身のうちには何の罪もなかったのです。


ですから、彼が悔い改めのバプテスマなどを受ける必要はないのです。



ところがイエスさまは、ヨハネに答えて言われました。



「いまはそうさせてもらいたい。

このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」




こうしてイエスさまが、悔い改めのバプテスマを受けられて水から上がられると、

天が開け、神の御霊が鳩のように降ってイエスさまの上に来ました。

そして天から、こう告げる声が聞こえました。



「これは私の愛する子。私はこれを喜ぶ」



本来イエスさまは、ヨハネのバプテスマを受ける必要はなかったのです。

しかし完全な人となられたイエスさまは、すべての点で私たち罪人と同じようになられたのです。

こうして彼が自らを低くしてバプテスマを受け、罪人のひとりに数えられたとき、

父なる神は、そのへりくだりと従順のゆえに天より御霊を注ぎ、声をかけられました。




イエスさまは、人間が通らねばならない道をすべて通過するために、このバプテスマを受けられたのです。

それはまさに彼によって正しいふさわしいことでした。



イエスさまは、このように宣教活動の初めから、罪人のひとりに数えられ、十字架の道へと向かって行かれました。



私たちも主の御心に従っていくとき、しっかりと十字架を負いながら福音宣教していきたいものです。

私たちが、しっかりと十字架を負うそのときに、

主は喜んで私たちに主の御霊を注ぎ、天より声をかけてくださることでしょう。



「あなたは私の愛する子。私はあなたを喜ぶ」と。





十字架の道



イエス・キリストは、人となって、この地上に生まれて来られたときから宣教活動に入られるときまで、

ずっと十字架の道を歩まれていました。

そして、言うまでもなく、3年半の公生涯と言われる宣教活動の間、

イエス・キリストは十字架の道を歩み続け、カルバリの丘に向かって行かれたのです。


主のいやしも奇跡も、悪霊追い出しも、十字架の生涯から流れ出てきた主の恵み以外の何ものでもないのです。



イエス・キリストは、父なる神の御心の中を生きられました。

父との絶え間ない交わりの中で、私たちの主イエスさまは、御声に聞き従い通されたのです。

そして、その道は十字架の道でした。

その道を通して、主は多くの実を残されたのです。



私たちも、この主イエスさまに聞き従って、十字架の道を行きましょう。

それは、必ずしも人の目には華やかな道には見えないことがあるかもしれませんが、

必ず、多くの実を残す、主の喜んでくださる道なのです。



「十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」


(マタイ10章38節)

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