2014年11月8日土曜日

十字架の生涯 イエス・キリスト 宣教の開始−悔い改めなさい!

真実な悔い改め

悔い改めと聞くと、
すぐに暗いイメージを抱く人が
多いような気がしますが、
あなたはどうでしょうか。

もしそうでないなら、
あなたは福音を
正しく理解されているのです。

なぜなら悔い改めは恵みであり、
私たちを十字架によって与えられた救いの喜びと平安の中に、
どんなときにも保ち続けてくれる
祝福だからです。

でも多くの場合は、
そういうふうに正しく理解されては
いないのです。

残念ながら、
本来救いと喜びにいたるはずの
悔い改めが、
責め立てられるような
罪責感と自虐的な思いに
変えられてしまっています。

だから人は、
本気で悔い改めようとしないのです。

クリスチャンになってからでさえも...

悔い改めの実を結び、
天の御国の豊かな祝福の中に
生きている人は少ないのです。

多くの方々が悔い改めの実を見ずに、
今なお、
悪魔がもたらす地獄の苦しみの中に
おられるのです。

それは、
主に2つの誤った悔い改めの態度から
来ていると思われます。

まず第一に、
罪に対して、あやふやな態度のまま
成されるいい加減な悔い改めは、
悔い改めがもたらす主の祝福を、
受けることができません。

「私が悪かったです」
という心からの真実な悔い改めは、
実に多くの祝福をもたらしますが、
見せかけだけの形だけの悔い改めは、
主に退けられてしまいます。

主は心をご覧になるからです。

サウルは主からアマレクを打ち、
すべてのものを聖絶するようにと
命じられましたが、
聞き従うことができずに、
肥えた羊や小羊や牛の
最も良いものを惜しみ、
つまらない値打ちのないものだけを
聖絶しました。

預言者サムエルは、
このことを怒り、
サウルのところに行きましたが、
サウルはすぐに
自分の不従順を認めようとせず
「私は主のことばを守りました」
と言い、
サムエルに
「私の耳にはいるあの羊と牛の声は
何ですか」
と問い詰められたときでさえ、
「民が最も良いものを惜しんだのです。
あなたの神、
主にいけにえを捧げるためです」と
民の責任にして、
悔い改めずに言い訳しました。

サムエルが「やめなさい」と言って、
はっきりと
「主の御声に聞き従わず」
と言ったときでさえも
「私は主の御声に聞き従いました」
と言い張ったのです。

その後で、
やっとサウルは自分の罪を認めますが、
その時でさえ自分の面目のために、
サムエルに一緒に帰って
礼拝してほしいと頼むのです。

彼の悔い改めは、
本物ではありませんでした。

もしも彼が自分の不従順を心から認め、
真実に悔い改めていたならば、
主はサウルを退けは
されなかったでしょう。

もしもサウルが、
心から悔い改めていたならば
ダビデの末からではなく、
サウルの末からイエス・キリストが
誕生していたのです。

サウルは悔い改めのない心のゆえに、
主から退けられてしまいました。

そして、主が与えようとされていた
大いなる祝福を失ったのです。



まちがった悔い改め

もう一つは、それとは逆に、
心から自分が悪いと思って
主の前に悔い改めているのですが、
どうしても、
主の赦しを受け取ることができないで、
同じことを、
繰り返し繰り返し
悔い改めている方がいらっしゃいます。

このような方は、
いつまでも、
自分を責め苛んで、
罪悪感の中で
苦しみもがき続けてしまうのです。

このような方は、信仰をもって、
主イエス・キリストが
十字架でなしてくださった完全な赦しを、
受け取って行かなければなりません。

自分の感覚や感情ではなく、
御言葉に対する信仰が必要なのです。

多くの母親が、
自分の子どものことで痛んでいます。

子どもに問題が起こると、
それが病気であれ、
心の問題であれ、
登校拒否であれ、
非行であれ、
こうなったのは自分が悪かったのだ、
と心の深いところでは、
ほとんどの母親は思っているようです。

そして自分を責め続けるのです。

時には何年にもわたって悔い改め続け、
これは悔い改めというよりも、
悔い悔い悔いと
言った方がいいかもしれませんが、
自分を責め続けてしまうのです。

そして中には
病気になってしまう母親さえいます。

確かに、子どもに
何か問題が起こったということは、
母親にも悔い改めねばならないことがあるのでしょう。

しかし、
主の前に心を注ぎだし
真実に悔い改めるならば、
ただ一度の悔い改めで、
あなたの罪は赦され、
あなたが失敗したと思った、
その取り返しがつかないと
思っていることさえ、
全能の神である主は
益としてくださるのです。

そうです。

あなたのお子さんにとっても、
必ず益と、最善としてくださるのです。

それが私たちの主です。

不可能のない
愛の神であられるイエス様を
信じてください。

あなたの感覚や感情に
サタンは訴えてきますが、
それに耳を貸してはならないのです。

私たちは、
神の御言葉に、
十字架の恵みに
目を留めるべきなのです。



自分の罪を悔い改める

さらに悔い改めるとき、
注意しなければならないことがあります。

真剣であるにもかかわらず、
的がはずれてしまい、
十分に、主の祝福を
見ていないことがあるのです。

ヨハネの手紙第一に

「私たちが自分の罪を言い表すなら、
神は真実で正しい方ですから、
その罪を赦し、
すべての悪から
私たちをきよめてくださいます」

とあるように、
私たちは「自分の罪」を言い表し、悔い改めるのです。

ところがしばしば、
特にとりなしの祈りのとき
よくあるのですが、
他の人の罪を、
一生懸命言い表している方が
おられるのです。

夫や妻のことを祈るときも、
子どものことを祈るときも、
日本のことを祈るときも、
気づいてみれば、

「あの人は、こんなこともあんなこともしていますが、どうか憐れんでください。
赦してください」と祈るのです。



「この国は
偶像礼拝と姦淫の罪で満ちていますが、
どうか彼らを憐れんでください」
と祈るのです。

なるほど、この祈りは
まちがいではありません。

しかし悔い改めは
「他の人」の罪を告白するのでは
ないです。

あくまで
「自分の罪」を告白するのです。

自分の罪を告白するときに、
主は喜んで赦し、
十字架の力が流れてくるのです。

日本の罪を悔い改めるときも、
私たちは自分のこととして
祈らなければなりません。

「私たちの偶像礼拝の罪、
この汚れに満ちた姦淫の罪、
この罪をどうか赦してください。

私たちはまだあなたの事を知らず、
本当の神様がわからないでいるのです。

それはイエス様を知っている私が、
十分に、彼らに、あなたのことを
伝えていないからなのです。

それは、私たちの罪です。

どうか私たちを赦し、
この国を憐れんでください」

と祈るべきなのです。

ひとりの韓国人のクリスチャン女性が、
ある日本人男性と結婚しました。

彼は暴力団の幹部だったのです。

彼女は、そのことを知りませんでした。

結婚して日本に来て、
しばらくして、
ご主人がやくざだったということを
知ったのです。

夫は放蕩三昧をして
悪いことばかりしていました。

彼女は耐え切れずに、
主に叫びました。

そのときです。

ご主人のために祈ろうとした
そのときに、
主の御声が聞こえてきたのです。

「お前が悪い」と。

彼女は耳を疑いました。

しかし確かに、主が語られたのです。

彼女の目からは、
涙があふれてきました。

夫に対する主の憐れみと愛が、
彼女の心にあふれてきました。

主に促されて彼女は
「自分の罪」を悔い改めたのです。

彼女の祈りは天に、
そして夫に届きました。

主は彼女の祈りを聞かれました。

それどころか、
やくざから足を洗った夫とともに、
今では主のために働いているのです。

今は、牧師夫妻として遣わされた
以前、私の仕えている長崎教会で
主に仕えていたの方のお話をします。

ご主人が遭難してしまったとき、
家で待つていた奥様に、
主が導いたのは
悔い改めの祈りだったのです。

「私が悪かったのです」

と奥様が聖霊の恵みと導きの中で
祈られたときに、
ご主人の遭難していた船の風向きは
変わり、
奇跡的に助かったのでした。

奥様が、
夫のことに腹を立てているときに
は、
何も起らなかったのです。

自分の罪を悔い改めること、
これは大きな主の力、
十字架の力を解き放ちます。

他人の罪ではなく、
自分の罪を、
聖霊の助けと恵みをいただいて、
悔い改めたいものです。



きよめの力

悔い改めというと、
私たちはどうしても過去の罪の赦し、
今まで犯してしまった
罪の赦しということばかり
目が向いてしまいます。

しかし、主の十字架の力は、
過去にだけとどまるものでは
ないのです。

先ほどの御言葉の中に、

「すべての悪から
私たちをきよめてくださいます」
とありますが、

この「きよめる」という言葉は、
罪の染みを取り除く
という意味があります。

つまり、
私たちの過去に犯した罪を赦して、
義としてくださり
白くしてくださるだけでなく、
これから後の将来においても、
その告白した罪と誘惑に
打ち勝っていく力が、
主の十字架から与えられてくる
ということなのです。

主は私たちが
真実に自分の罪を告白するとき、
私たちを赦し、きよめて、
すべての悪に打ち勝つ勝利者として、
本当の姿へと変えてくださるのです。

「悔い改め」は、
私たちの過去をきよめるだけでなく、
私たちの将来、未来までも
きよくする力があるのです。

なぜなら、
神が時間を創造されたのであり、
主には不可能はないからです。



悔い改めの恵み

悔い改めは恵みです。

神が弱く惑わされやすい私たちに、
失敗ばかりして、まちがえてしまう
私たちに与えてくださった、
すばらしい恵みなのです。

モーセもダビデも罪人で、
弱さを持った失敗者でした。

しかし彼らは、主の前に
真実に悔い改めた人たちでした。

だから主は喜んで神の器、
主のしもべとして用いられたのです。

ペテロをはじめとする12弟子たちも、
主が十字架にかかる
その時に裏切った人たちでした。

しかし彼らは、
主の憐れみと恵みの中で、
悔い改める心を持っていました。

だから、
彼らは主の愛の中で用いられたのです。

私たちも弱さを覚えることが
しばしばあります。

罪の中に沈み、
失敗の中で落胆することでしょう。

しかし、私たちは、
この悔い改めの恵みがあることを
覚えてください。

十字架は今も、
私たちのために、
カルバリの丘から叫び続けているのです。

そして、
その前で真実に悔い改める者たちに、
主の赦しときよめの力は
流れ続けているのです。

ともに主の前に出て、
この恵みの力をいただきましょう。

心からの悔い改めを通して。

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