2015年3月24日火曜日

十字架の生涯 イエス・キリスト 第18 回 さまざまな裏切り2

はだかで逃げた青年

 イエス様が捕えられたとき、
みんなはイエス様を見捨てて、逃げていきます。
ところが一人だけ、ある青年が、
素はだに亜麻布を一枚まとったままで、
イエス様について行きました。
どうしてかは本当のところはわかりません。
けれども、とにかくイエス様のあとを、
ついて行かずにはおられなかったのでしょう。
イエス様のことが気になって、
そっとイエス様のあとからついて行ったのでしょう。

ところが、
せっかく彼がそっとイエス様のあとからついて行ったのに、
人々は目ざとく彼を見つけて、
彼がイエス様の弟子たちだとわかると捕えられようとしたのです。
その途端、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げたのです。

彼はもう必死で逃げました。
こわかったのでしょう。
捕まりたくなかったのです。
亜麻布はとても上質な布で、高価なものでした。
しかし、それを脱ぎ捨ててまでも
彼はとにかく逃げました。
はだかになって逃げました。
恥ずかしいという思いよりも、
捕えられる恐怖のほうが大きかったのです。

彼は、もうイエス様のことはどこかに飛んでいたのです。
いえ、心にはありました。
でも自分が捕まることのほうが
イエス様のことよりも大きな問題だったのです。
もうこれ以上は、イエス様にはついて行けなかったのです。

 この青年が誰だったのかは、はっきりとは分かっていません。
ただ、このことが書かれているマルコの福音書の著者であるマルコ・ヨハネではないかと言われています。
 もしそうだとしたら、
マルコはこの記事をどんな思いで書いたのでしょうか。
福音書の中で、マルコだけが、このことを記しています。
マルコにとって、これは忘れられないことだったのでしょう。
彼にとっては、
これは自分はイエス様を裏切ってしまったという痛い思い出だったはずです。

 しかし同時に彼はその中で、
十字架を通して注がれる神の赦しと愛の深さ、広さを知ったのでしょう。
だからこそ、彼はこのことを、わざわざ書き記したのです。
もしかしたら、
これを書きながら、彼は泣いていたかもしれません。
自分の罪と弱さを思い出しながら、それにもまさる愛を思い起こして。

 私たちも裏切った弟子たちのように、
イエス様に選ばれ、召され全てを捨ててついて行きながら、
失敗しやすいものです。

しかしペテロがその40日後のペンテコステの日に、
説教者として用いられ、
三千人の人が救われたように、
主は憐れみをもって、
悔い改め主を待ち望む者に力を与えてくださることを覚えていましょう。

 そしてユダの道ではなく、ペテロの道を行きましょう。
そのとき、マルコ・ヨハネのように主は憐れみをもって用いてくださるのです。

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