2015年2月28日土曜日

十字架の生涯ーイエス・キリスト ゲッセマネの祈り1

十字架の生涯
第17回目 ゲツセマネの祈り

捕らえられる前に祈られた主

イエス様が十字架にかかるときが、
ついにやってきました。

最後の晩餐を終え、
イエス様は、弟子たちとともに、
ケデロン川筋の向こう側に
出て行かれました。
そして、そこにある園に
弟子たちにといっしょに
入っていかれました。
その時です。
12弟子の一人であったユダが、
一隊の兵士たちや
剣や棒を手にした多くの群衆と、
祭司長、パリサイ人たちから
送られた役人たちを引き連れて、
イエス様を捕らえにきたのです。

しかしこのとき、
イエス様は全くたじろぐことも、
恐れることも、慌てることもなく、
むしろイエス様のほうから、

「誰を探すのか。」

と彼らに言われたのでした。

彼らが「ナザレ人イエスを。」
と答えると、
イエス様は「それは私です。」と自分
のほうから彼らに答えられました。
それほど落ちついておられました。イエス様があまりに落ちついて
堂々としておられたので、
彼らのほうが
思わずもあとずさりして、
地に倒れてしまったほどでした。

イエス様は口づけで裏切ろうとしていたユダにさえ、

「友よ。」

と声をかけられたのです。
それほどに
心に余裕を持っておられました。

また驚いた弟子の一人である
シモン・ペテロは剣を抜いて、
思わずも大祭司のしもべに
撃ちかかり、
右の耳を切り落としてしまいます。
ところがこの時も、
その瞬間、
イエス様はペテロに言われたのです。

「剣をさやに収めなさい。
父がわたしに下さった杯を、
どうして飲まずにいられよう。」

そう言って、
そのしもべの耳にさわり、
直してやられたのです。

何という心の余裕、
何という落ち着きでしょう。
イエス様は神の子だったから、
十字架を前にしても
こんな余裕があったのでしょうか。
もちろんイエス様は神の子でした。

しかし、私たちと同じ人と
なって下さった人の子だったのです。
イエス様が、
こんなに余裕があったのは、
実はこの十字架を前にして、
捕らえられる直前に
祈られたからでした!
血のような汗を流しながら
父なる神の前に
祈られたからでした。
だからこそ、
イエス様は裏切る弟子たちにも
動揺する事なく、
愛を示し、
父から与えられた
ご自分の杯である十字架に向かって
真っ直ぐに
進んで行かれたのでした。

イエス様が
捕えられる前に祈られた祈り、
それは「ゲツセマネの祈り」として
とても有名です。

今回は、
そのゲツセマネの園にともに行って
イエス様の祈りと言葉に
耳を傾けてみましょう。


苦しみもだえて祈られるイエス

イエス様は、最後の晩餐が終わると
弟子たちといっしょに
ゲツセマネに来られました。
このゲツセマネというのは、
イエス様が、たびたび弟子たちと
会合された場所でした。

実はこのとき、イエス様には、
十字架が、
もう直前にまで迫っていたのです。

それを知って、イエス様は、
弟子たちに言われました。

「私があそこに行って
祈っている間、
ここにすわっていなさい。」

そう言ってからイエス様は、
ペテロとゼベダイの子ヤコブと
ヨハネの3人だけをいっしょに連れて
祈りに行かれました。

イエス様は悲しみと深い恐れで
苦しみもだえ始められたのです。
イエス様は、彼らに言われました。

「私は悲しみのあまり死ぬほどです。
ここを離れないで、私と一緒に
目をさましていなさい。」

イエス様は、
いっしょに祈っていなさい
とは言われませんでした。
ただ目をさましていなさい
と言われたのです。
でも弟子たちは
目をさましていることさえ
できなかったのです。

石を投げれば届くほどのすぐそばで
イエス様は、
ひざまずきひれ伏して
祈っておられました。
今まで見たこともないほど
苦しみもだえながら、
切に祈っておられました。
あのイエス様が、
こんなにも苦しみながら
父なる神に祈られたのです。

イエス様は、
これからかかる十字架を
知っておられました。
罪を犯したこともなく、
罪を知らない方が、
罪を、
その身に負わなければならないことも、
サタンの呪いを、
その身に負わなければならないことも、
イエス様は知っておられたのです。

しかし何よりも
イエス様が苦しまれたのは、
父なる神に捨てられなければならないことでした。
主はいつも
父なる神とともにおられました。

いつも、
どんなときでも、
イエス様は
父なる神と一つだったのです。

それゆえ、
主はこんなにも苦しみながら
血のような汗を流して
祈られたのでした。

「アバ。父よ。
あなたにおできにならないことは
ありません。
どうか、みこころならば、
この杯を私から取りのけ、
過ぎ去らせてください。
しかし、
わたしの願うようにではなく、
あなたのみこころのように、
なさってください。」と。

イエス様が十字架を前にして
あんなにも堂々としていられたのは、
このゲツセマネの祈りが
あったからでした。
主は祈りの中で苦しみぬかれ、
そして勝利されたのでした。

私たちにも
十字架が許されることがあります。
そんなとき、私たちも、
まず主の御足の後に従って
ゲツセマネに行きましょう。
祈りの場に行って、
十字架を負う前に主に叫び、
心を注ぎ出して、
イエス様のように
勝利を受けましょう。
そのとき私たちは
十字架を喜んで
引き受けることができるのです。

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