2015年2月22日日曜日

ゲッセマネの祈り1

十字架の生涯 イエス・キリスト
第17回目 ゲツセマネの祈り

捕らえられる前に祈られた主

イエス様が
十字架にかかる時が
ついにやってきました。

最後の晩餐を終え、
弟子たちとともに、
ケデロン川筋の向こう側に
出て行かれたイエス様は、
そこにある園に
弟子たちにといっしょに
はいっていかれました。

その時です。
12弟子の一人であったユダが、
一隊の兵士たちや
剣や棒を手にした多くの群衆と、
祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、
イエス様を捕らえにきたのです。

しかしこのとき、
イエス様は全くたじろぐことも、
恐れることも、慌てることもなく、
むしろイエス様のほうから、
「誰を探すのか。」
と彼らに言われたのでした。
彼らが
「ナザレ人イエスを。」
と答えると、

イエス様は
「それは私です。」
と自分の方から
彼らに答えられました。

それほど落ちついておられました。イエス様があまりに落ちついて
堂々としておられたので、
彼らのほうが思わずも
あとずさりして、
地に倒れてしまったほどでした。

イエス様は、口づけで裏切ろうとしていたユダにさえ、
「友よ。」と声をかけられたのです。
それほどに
心に余裕を持っておられました。
また驚いた
弟子の一人のシモン・ペテロは
剣を抜いて、思わずも
大祭司のしもべに撃ちかかり、
右の耳を切り落としてしまったのです。
ところがこの時も、
その瞬間、
イエス様はペテロに言われたのです。

「剣をさやに収めなさい。
父がわたしに下さった杯を、
どうして飲まずにいられよう。」

そう言って
そのしもべの耳にさわり、
直してやられたのです。

何という心の余裕、
何という落ち着きでしょう。
イエス様は神の子だったから、
十字架を前にしても
こんな余裕があったのでしょうか。

もちろんイエス様は神の子でした。
しかし、
私たちと同じ人となって下さった
人の子だったのです。
イエス様が、
こんなに余裕があったのは、
実はこの十字架を前にして、
捕らえられる直前に
祈られたからでした。
血のような汗を流しながら
父なる神の前に
祈られたからでした。

だからこそ、
イエス様は裏切る弟子たちにも
動揺する事なく、
愛を示し、
父から与えられた
ご自分の杯である十字架に向かって
真っ直ぐに
進んで行かれたのでした。

イエス様が
捕えられる前に祈られた祈り、
それは「ゲツセマネの祈り」
としてとても有名です。

今回は、
そのゲツセマネの園に
ともに行って
イエス様の祈りと言葉に
耳を傾けてみましょう。

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